韓国・中国の捏造の証拠をあなたに

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真実は米軍が日本人捕虜を虐殺していた2

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1927年( 昭和 2年 )に
チャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、
史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功した。
彼は1944年( 昭和19年 )に
ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
その体験を日記に記して後に
「 第2次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。
―――
1944年( 昭和19年 )6月21日の日記には、
日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、
のどを「 真一文字にかき切った 」というのを、
日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれた
ある将軍との会話を要約している。

残虐行為に対するリンドバーグの異議は、
嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。
6月26日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、
および パラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。
降伏し捕らえられた2千数百人という日本兵捕虜のうち、
捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か2百人に過ぎなかった 。

残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。
「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が
日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう 」
とリンドバーグは聞かされた。
つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、
余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった。

7月13日の日記では、
「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を
射殺することをなんとも思わない。
彼等はジャップに対して、動物以下の関心しか示さない 。
こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。

8月30日にリンドバーグは、
中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。
そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、
日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
尋問に英語で答えられる者だけを残し、
あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。

ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、
後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて
収容施設のある地域に輸送する際に、
彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。
そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。
( 以上、第2次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著 )

日本兵の頭部で遊ぶ米軍中尉。
(1944年4月30日、ニューギニア、アメリカ海軍魚雷艇341甲板にて)
日本兵の頭部で遊ぶ米軍中尉。1944年4月30日、ニューギニア、アメリカ海軍魚雷艇341甲板にて

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や
マッカサー指揮下の第41師団は、「 捕虜を取らない 」
つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、
既に降伏した日本兵を殺すので有名だった 。

軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した
日本の特攻隊に関する本の中で、
ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、
オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。
「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、
日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、
部下の大佐が司令官に反論した。

「 私の言うことが聞こえただろう 」 と、
両手を挙げた日本兵から
わずか数ヤード離れただけの少将( 司令官 )は答えた。
「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」。そして彼等は撃たれた。
日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、
戦時中の日本からの対米宣伝放送( 東京ローズ )では、
第41師団のことを「 屠殺者、Slaughterer 」と呼んでいた。

終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、
第41師団、捕虜を取らず という堂々たる見出しが付けられていた。
この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、
軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。
―――
容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著

―――――――

■病院に対する爆撃
昭和19年( 1944年 )5月24日に
ブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第8海軍病院が、
米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら1千4百名が死傷した。
病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように
赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、
それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという
国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、
地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。

■遺体を損壊する行為
日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、
死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、
戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、
米国民の間で戦時中からよく知られていた。

日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、
ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。
「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、
それを頂いてネックレスでも作るかな 」と一人が言う。
「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」ともう一人が宣言する。
「 塩漬けにしてな」。( ガダルカナル日記、1942年 )

戦後出版された水兵の日記の1944年( 昭和十九 年)7月の記述に、
すでに 17個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、
その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、
ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、
と事もなげに述べられている。
( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 )

吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされる)
吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされる)

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太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、
日本兵の死体から手を切り取って戦果の トロフィーとする、金歯をあさる、
死体の空いた口を目がけて小便をする、
恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し 、
「 みじめな生活から、解放してやっただけだ 」
と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。
( E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録 )

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フィリピンの ラグナラ州 カランバには
日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。

米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、
戦争が既に終了した昭和20年( 1945年 )末までに、
栄養失調で死亡した日本兵捕虜は1万2千人 にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、
原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、
兵隊が絞首刑になったことは間違いない。

しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。
そこには「 バターンの死の行進 」に対する復讐の意図から 、
敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対して
必要な食糧補給をしなかったからである。
―――
「人種蔑視に基づく残虐行為」より
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku
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