韓国・中国の捏造の証拠をあなたに

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中国/南京大虐殺の大ウソ!真実を暴く!

こちらから引用させて頂きました。「ねずさんのひとりごとさんのサイト」 様
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2103.html


南京入城


昭和12(1937)年12月13日、日本陸軍は、南京城を占領しました。

この南京占領に関して、その前後に日本軍による虐殺があったなどというデタラメがまかり通っています。
そこで今日は、実際にあった事実を、順を追ってお話ししてみたいと思います。

南京戦は、「支那事変」の初期に行われた戦闘です。
まず、この「支那事変」について、これを「日中戦争」などと呼んでいる者が左翼や朝鮮系の学者の間に多く見られますが、間違いです。

戦争は、国家対国家が行うものです。
昭和12年の段階で、国際的に承認された政府としての中華民国も、中華人民共和国も存在していません。
当時の支那はいまだ軍閥割拠の状況にあり、臨時政府を名乗っていたのも、この時点で中国国内には2つも3つもありました。
そしてそのいずれもが、「国家」として機能する段階に至っていません。
日本は国際的に承認された「国」です。
これに対して、日本が対処に立ち上がった相手は、蒋介石率いる「国民党」という一軍閥政党でしかありません。先ずこの点をただしておきたいと思います。

国家というのは、人々から税をとり、その税をもって人々のための公共施設や法等を運営する共同体をいいます。
ですから、たとえばいまこの場で私が「ねず国」を名乗り、初代総裁を自称したところで、そんなものは国家とはいえないし、同様に仮にいま日本の陸上自衛隊が日本自衛国を名乗ったところで、それはただ勝手に名乗っているだけで、国家とはいいません。
まして当時の支那国民党のように、新国家建設を標榜して外国から軍事物資や財務や食料の支援を得ているだけの存在は、国家の名に値するものではありません。
単に国家になろうとしている、いち政党です。
ちなみに、言葉の定義として、「事変」というのは、警察力で対応しきれない事件や騒動のことを言います。

その政党が、援蒋支援によって武装し、自国民に銃を突きつけて強制徴兵し、軍隊をつくりはじめは支那に巣食った共産党と敵対していたものが、昭和11(1936)年12月12日の西安事件(せいあんじけん)によって国民党の首魁であった蒋介石を拉致し、国共合作を行いました。

この事件後、国民党の敵は支那共産党であったはずのものが、いつの間にか国民党内に共産党のスパイが幹部として潜り込むようになり、昭和12年7月7日の夜、起こったのが盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)です。
当時日本は、義和団事件後に締結された北京議定書に基づき、米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、オーストリア、ベルギー、スペインとともに、北京周辺に約5000名の軍隊を治安維持のためのPKO部隊として駐屯させていました。
盧溝橋事件は、その軍の演習中に何者かが日本と国民党双方に向けて発砲を行ったことから、両軍に緊張状態となったという事件でしたが、後にこれは支那共産党の陰謀であったと、中共幹部の周恩来が自白しています。

この盧溝橋事件は、現地停戦協定によってわずか4日で問題が解決したのですが、事態を何が何でも紛争にさせたい中共の工作によって、7月25日には廊坊事件、翌26日には広安門事件が起きました。

どちらの事件も、正当な条約上の根拠に基づいて駐屯していた日本軍が、騙し討ちにあって被害を受けるという事件でしたが、日本軍の優秀な防戦によって、事件は翌日には鎮圧されています。

そしてこの2つの事件で追われた支那人によってひき起こされたのが、昭和12年7月29日の通州事件です。
この事件は、日本人居留民385名のうち、223名がきわめて残虐な方法で虐殺され、女性もほとんど強姦されて殺害され、しかもその殺害方法がきわめて猟奇的な、おそらく人類史上類例のない大量猟奇殺人事件です。

以前、支那人男性の妻となっていて生き残った女性の証言を、当ブログで紹介しましたが、ここでは長くなるので、現地にいたフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズの証言を掲載します。

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私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。しかし120人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。
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これだけ残酷な仕打ちと実際の軍人以外の民間人の被害まで受けながら、それでも日本は、支那との軍事衝突を避けようとしました。
理由は簡単です。
当時の支那の陸軍兵力は210万、日本は25万だったとこもさりながら、根本的に昔も今も、日本は戦闘や殺し合いを極力避けようとする国民だからです。

ですから、これだけの被害を受けながら、日本は支那側からの信頼の厚い元外交官の実業家で、紡績業組合の理事長をしていた船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、蒋介石側に、きわめて寛大な和平を働きかけています。
これを「船津工作」といいますが、内容は、それまでの支那側の言い分を、(日本にとって不利益なこともふくめて)全部まるのみするから、争いを止めようというものです。
この工作には、当時の陸軍省も海軍省も賛成しています。

支那国民党の対日本に対する政治的主張を、全部まるのみしますというのですから、これ以上、支那国民党には、日本と争う理由がありません。
あれだけ酷い惨事となった通州事件についてさえ、日本はいっさいの賠償請求をしないというのです。
日本は、平和のために、そこまで譲歩したのです。

悪いけれど、これがもしいまどきの韓国や支那だったら、どのような行動に出るでしょうか。
あるいは米国でも英国でもフランスやドイツでも良いです。
100%確実にいえることは、おそらく、日本のようにあらゆる横暴に目をつぶるから、和平を結びましょうとは絶対に言わないと思います。
それこそ千年経っても恨みは忘れないどころか、核の雨が降る話になろうかと思う。

こうして日本と支那国民党は、同年8月9日に上海で、船津工作に基づく現地停戦協定を結ぶことになりました。
そして、いよいよその協定締結のその日の朝、上海で起こったのが、大山中尉虐殺事件です。

この事件は、海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉が、車で走行中に、支那の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて惨殺され、さらにごていねいに瀕死の状態でいたところを、車外に引きずり出された挙げ句、頭を青竜刀でまっ二つに割られたという事件です。
この緊急事態発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になってしまいました。

そしてこの1週間後、第二次上海事変が起きます。
上海に駐屯していたわずか2200人の日本の海軍陸戦隊のもとに、なんと国民党は5万の兵力をさしむけて、これを包囲全滅させようとしたのです。

海軍陸戦隊は、2000の増援を得て、なんと2週間もの間、上海で持ちこたえました。
このことは、決して軽く考えてほしくないのです。
銃を使う近代戦では、戦闘はたいてい1〜2分で終わります。
銃撃戦が5分も続いたら、「今日はとんでもなく長い戦いだった」と、後々まで語り継がれるのが、近代戦です。
海軍陸戦隊4200名(増援部隊を含む)が、10倍以上の敵を相手にして2週間持ちこたえたというのは、24時間、常に銃撃や迫撃砲などの脅威に遭いながら、それでももちこたえたということなのです。
ものすごい精神力です。

上海には、このとき、約3万の日本人居留民がいました。
そしてそれに数倍する親日家の支那人もいました。
もし、海軍陸戦隊の防衛ラインが破られていたら、その居留民たち、および親日支那人たちの身には、いったいどのようなことが起こったでしょうか。
ひとつ間違いなくいえることは、通州事件に数倍する事態が、上海で起きたであろう、ということです。

では、陸戦隊が必死に戦っていた2週間の間、日本政府は何をやっていたのでしょうか。
時の内閣は近衛文麿内閣です。
答えは簡単です。
喧々諤々やっていました。
断固戦うべしという議論と、軍は派遣すべきでないという議論がまっ二つに分かれて紛糾し、決断がつかずにいたのです。

しかし、結果として、2週間経っても一向に事態の沈静化の図られない状況の中で、日本政府は上海出兵を決断しました。
そして松井大将率いる兵力10万名の上海派遣軍が編成され、ようやく9月9日なってようやく軍が派遣されました。
けれどそのとき、支那国民党は、上陸してくる日本軍に対し、なんと60万の精鋭部隊に2万個ものトーチカをつくって、まさに手ぐすねひいて、これを待ち受けていたのです。

このため松井大将率いる日本軍は、たいへんな苦戦を強いられました。
この事変で、日本側は4万1000名もの死傷者を出しています。
この数は、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。

11月10日、ついに日本軍は、国民党軍を蹴散らして、上海の軍事的脅威を取り除いきました。
このときの英国の新聞です。
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国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
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そして上海を落とした日本軍は、敵の本拠地である南京へと兵をすすめました。
城の外側での激しい戦いのあと、日本側は1週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から南京城内にビラを撒いて告知したうえで、城外に待機しました。
南京の市民たちに十分な避難の期間を与えるためです。

そして12月10日、総攻撃開始。
12月13日、南京城陥落。
翌14日に城内に入城した第十軍の山崎参謀は、その日記に、南京城の南端にある中華門から東端の中山門までを見分した情況を日記に記録しています。
「南京城東部は、広漠たる空地にして、都市計画の雄大さを認む。」
つまり、城内は、なにもない広大な空き地になっていたのです。

これはどういうことかというと、実は、日本が攻めて来ると悟った国民党が、城内に日本軍が隠れないようにと、市民たちを強制的に追い出すと、そこに火を放って、何もかも燃やしてしまっていたのです。

同じく14日の模様を、城内東北部の残敵を掃討した佐々木大三〇歩兵旅団長が日記に書いています。
「住民はひとりも顔を見せない。痩せ犬だけが無表情に歩いたり、寝そべったりしていた。」

歩兵第三八連隊の戦闘詳報には、
「興衛および十字街付近は、小集落の点在をみるも、住民は居住しあらず。敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり。」
とあります。

また、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者も、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が進撃し始めた。これが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われた。農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。」

これが実情です。
この、どこをどうやったら南京城内で25万もの虐殺ができるのでしょうか。

くだんの支那国民党総裁の蒋介石は、南京戦の始まる3日前の12月7日には、そくさくと我先に南京から逃げ出しています。
その蒋介石は、その前にも、あれだけ準備した戦いで、日本軍に負けています。
日本軍の強さを思い知った蒋介石は、南京でも勝てないと踏んだわけです。
だからこそ逃げた。

上海で、日本軍には勝てないと知った蒋介石は、逃げるだけではなくて、このときから新たしい対日戦闘を開始しました。
それが広告宣伝戦争です。
蒋介石は、南京陥落の日の少し前から年間300回にもわたる記者会見(ブリーフィング)を行うようになったのです。

これは内外のジャーナリストや外交官など30〜40人の前で、日本がいかに不当であるか宣伝したというものです。
日本に軍事力で勝てないから、蒋介石はパフォーマンスで勝とうとしました。
また、同時にこれは、日本に負けて兵を失った蒋介石が、新たな兵を徴用するための広告宣伝活動でもありました。

要するにこのとき支那国民党は、日本と戦争していたわけです。
ですから、蒋介石は、日本を非難するための宣伝材料を見つけたり、捏造しては、毎日記者会見をして、自分たちを正当化し、また日本軍の悪逆非道をアピールしてました。
これが年間300回、毎日のように行われました。

かつて、連合赤軍が「あさま山荘事件」を起こしました。
これに対し、日本の警察が対処し複数の死傷者を出していますが、これを日本国と連合赤国との日赤戦争と呼ぶ人は誰もいません。
なぜなら、日本は国家ですが、連合赤軍はただの非公認軍閥でしかなかったからです。
要するに蒋介石は「国」ではないし、この戦いが日中戦争でありません。

そして不思議なことに、この蒋介石自身が行った300回におよぶ記者会見について、藤岡信勝先生らで構成する次週主義史観研究会が、すべての会見内容について詳細に分析を行いましたが、その会見で、日本の軍による南京での虐殺の話は、ただのひとつももちあがっていないことが確認されています。

このことは、とても重要なことです。
もし、わずかな人数でも、支那人に被害者と呼べる者が出れば、それは当時劣勢に立っていた蒋介石にとって、きわめて都合の良い宣伝材料になったはずだからです。

けれど、蒋介石の記者会見の中で、南京虐殺なるものが出て来たことは、一度もない。
「ない」ということは、つまり「南京虐殺などなかった」ということです。

12月13日に南京を陥落させた日本は、城内の外国人居留区に潜む残敵の発見をし、彼らから武器を取り上げ、放逐しています。
なぜ放逐したのか。
これもまた重要な問題です。

その兵たちの多くが、いわゆる思想犯のような者たちや愛国者というものではなくて、いきなり南京にやってきた国民党軍閥によって、突然、銃を突きつけられて兵士に仕立て上げられただけの若者達だったからです。

南京を占領した日本軍は、占領の10日後には、撤収と移動を開始しています。
なぜなら、南京市の治安が回復し、残敵掃討の必要もなくなったからです。

そして南京は、このあと大東亜戦争が終わるまで、南京城内では、日本人の若い女性が普通に市場で一人歩きしてショッピングを楽しめる、何ら問題が起こらない、平和な町となりました。
大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり、占領があり、食料の供給もままならないひどい状態が続いていましたが、南京は、すくなくとも昭和20年夏まで、きわめて平和で、食料も豊かな、軍事的脅威やテロの危険のない、安全な町であり続けたのです。

この様子が変化したのは、終戦後、日本軍が去ったあとのことです。
これを第四次南京事件と呼びます。
中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪を行ない、一般市民から10万人から15万人という、とほうもない死傷者を出しています。
南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。



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