韓国・中国の捏造の証拠をあなたに

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中国、台湾人を虐殺「台湾二二八事件」


こちらから引用させて頂きました。「ねずさんのひとりごと」様

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2185.html

台湾二二八事件
台湾228事件-1


2月28日は、台湾二二八事件が起こった日です。
昭和22(1947)年のことです。

事件後、台湾に進駐していた国民党軍は、その後約40年間にわたって、台湾を「戒厳令」下におきました。
「戒厳令」というのは、国家緊急権としてすべての法の執行を停止し、行政司法立法権のすべてを、軍の掌握下に置くというものです。

戦前の台湾は、日本でした。
教育も政治体制も、すべてが日本本土と同じ体制でした。
当時の台湾の人々は、日本人そのものであったし、実際、自分たちは日本人と思っていました。

終戦によって日本と台湾は切り離されました。
日本には米軍が進駐し、台湾には支那蒋介石の国民党軍が占領軍として進駐してきました。

この国民党軍が台湾にはじめてやってきた日のことを、台湾出身の楊素秋(ようそしゅう)さんがその著書で述べています。
すこし引用してみます。

========
中学校二年生の時、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。
しかし、先生も生徒も中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで全く分かりませんでした。
ただ、先生の発音を真似して歌っているだけでしたので、私はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。

国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。
しかし、国軍はいつまで経っても来ませんでした。
それで、午後一時に来るから十時に再度集合ということになりました。
ところが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。

そこで、昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、全然来る様子はありません。
更に待つこと二時間、結局来た時には時計の針は五時を指していました。

日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく社会全体の雰囲気でした。
その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これが初めての「中国時間」の洗礼でした。

敗戦でシナ兵(中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。
私たちは『キング』や『少年クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来るシナ兵のイメージがものすごく強かったのです。
シナ兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いでこうもり傘を背中に差して裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。

不安な気持ちで一杯でした。

そういうシナ兵が潜在意識に植え込まれてはいましたが、本当に見た途端に、もうガックリしました。
これはヒドイ!と思ったのです。
出迎えに来ていたみんながみんな「うわー」と言ったのです。
恐ろしい光景に見えました。

それまで日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いてピシッとしているものだと思っていました。
それが、シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。
中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが言えませんでした。

まるで乞食の行列でした。
そんな兵隊を自国の兵隊として認められますか。
今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思います。

女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。
台湾人全部が同じ思いだったと言っても過言ではないでしょう。

(楊素秋著「日本人はとても素敵だった」)
========

ところが、彼らの問題は、身なりだけではありませんでした。
それ以上に、彼らの腐敗の凄まじさに、台湾の人々は驚いたのです。

軍人や官僚による、強姦・強盗・殺人、しかも犯人がわかっていても、彼らは絶対に罰せられません。
凶悪犯で罰せられる場合でも、犯人の省籍をマスコミ等で報じることは禁じられました。
今の日本で在日半島人や大陸人が重大犯罪を犯しても報道は日本人名で行われるのと同じです。

公共の資材が国民党官僚によって接収・横領されました。
横領された物資は、上海の国際市場で競売にかけられました。
そのため台湾の物価は高騰し、インフレによって企業の倒産が相次ぎました。
短期間のうちに失業も深刻化しました。
不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、人々の不満が、いやが上にも高まっていったのです。

昭和22(1947)年2月27日、台北市の街頭に、ひとりの女性がいました。
闇タバコを販売していたのです。
戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩は、大陸から来た国民党が強制的に専売にしていました。
同じ時期の支那大陸では、国民党はそれらの自由販売を認めていました。
つまり、強制専売は、台湾の人々から少しでも財産を巻き上げようとするものであったわけです。

その女性は40歳で、2人の子がいました。
この女性を、国民党の官憲が捕まえました。
女性は土下座して許しを懇願しました。
けれど取締官ら(取締官6名、警察官4名の計10名)は、よってたかって女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を全部没収しました。

同じ中国人というのに、なぜ台湾だけが専売なんだ?と、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を持っていたところに、この殴打事件です。

ふだんからたまっている不満に加え、あまりの仕打ちに、タバコ売りの女性に同情が集まりました。
その場に多くの台湾人が集まってきました。

すると取締官らは、今度は集まった民衆に向かって発砲しました。
無関係な野次馬に向かって発砲し、数名を射殺したうえで、取締官らは走って逃げたのです。

事件をきっかけに、市民の怒りが爆発しました。
翌28日には、自然発生した抗議のデモ隊が、市庁舎へ押しかけました。
あたりまえのことだと思います。

ところが国民党は、市庁舎の屋上に機関銃を据え、武装もしていない市民に向けて、予告も警告もなしに、いきなり無差別な機関銃掃射を行ないました。
次々と倒れる市民たち。
掃射で、「たくさん」の台湾市民が命を失いました。

たくさんに「」を付けたのには理由があります。
このとき機関銃掃射によって殺害されたり、傷を負ったりした人たちの数が、いまだにはっきりとわかっていないのです。公表もされていません。

これが何を意味するかというと、殺された市民たちは、新たな支配者となった国民党にとって、人でなかったということです。
人でないから数をかぞえる必要もない。知ろうともしない。

事件が発端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、日本語と台湾語を解しない国民党要人に対する襲撃事件が、台湾全島で頻発しました。

市民たちはラジオ放送局を占拠し、軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と放送しました。
怒りというより、いいようのない悲しみからの行動です。涙が出ます。

市民の圧力の前に劣勢となった国民党は、市民に対話を呼びかけました。
こう書くと、政治の冷静な対応カナ?と思われるかもしれません。
けれど、そういう期待が生まれるのは、日本人だからです。
世界はそんなに甘くない。

国民党は、対話を呼びかけたその一方で、在台湾行政長官兼警備総司令の陳儀(ちんぎ)から、当時支那本土にいた蒋介石に対して、次の電文を打っているのです。

「政治的な野望を持っている市民が、大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」
「市民が反乱を起こした」
「組織的な反乱」
「独立を企てた反逆行為」
「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」
そして、彼は援軍の要請をしました。

蒋介石は、陳儀の電報をなんの検証もなしに鵜呑みにしました。
そして翌3月、第21師団と憲兵隊を大陸から派遣しました。

台湾の市民たちは、日本の法治政治に慣れ親しんでいました。
それを「あたりまえのもの」と考えていました。
だから、陳儀の対話姿勢に対して、素直に応じたのです。
ところが、その対話姿勢というのは、ただの時間稼ぎでしかありませんでした。

大陸から援軍が来ると、陳儀は、武器を持たない市民に向けて、容赦なく発砲をくり返しました。
これにも多数の証言が残っています。
そして、裁判官・医師・役人など、日本統治下で高等教育を受けたエリート層を、片端から逮捕投獄し、大陸流の酷い拷問を行いました。
拷問を受けた多くの知識人たちが、獄死しました。

さらに街頭には検問所が設けられました。
そして北京語が上手に話せない台湾人は、全て逮捕されました。
逮捕された台湾人は、手足に針金を刺し込んで縛って束ねられました。
これを「粽(チマキ)」と称してトラックに乗せ、そのまま基隆港に投げ込んで、溺死させました。
これは実話です。

この事件によって、約2万8000人の台湾人が殺害されました。
それだけではありません。
殺害された台湾人たちの財産は、すべて国民党の高官たちが個人的に摂取したのです。
いま、台湾では、多くの元国民党員たちが、台湾のお金持ちになっています。
その原点がここにあります。

さらに、表向き事件が収束した後も、日本統治時代を高く評価しようとする者に対して、容赦ない粛正が行われました。
これを「白色テロ」と呼びます。

そして支那本土を中共によって追われて、台湾にやってきた蒋介石は、台湾全土に戒厳令を発動しました。
この戒厳令は、その後なんと40年間も続きます。
そして戒厳令が解除された後も、国家安全法によって言論の自由は制限されました。

台湾に「民主化」が実現したのは、元日本人である台湾の李登輝氏が総統に就任後、平成4(1992)年になってようやく刑法を改正し、言論の自由を認めてからのことです。
ほんのつい最近の出来事です。

日本は、昭和27年にまがりなりにも占領統治から外れました。
すくなくとも形の上では独立国になったわけです。
ところが、元日本であった台湾は、戦後69年経った現在においてもなお、連合国(国民党)による占領が続いています。
そしてその国民党が、大陸を追われた政党であって、帰るところがなくなっているということが、事態をより一層困難にしています。

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