韓国・中国の捏造の証拠をあなたに

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日本軍はアジアから慕われていた証拠



当時の大東亜戦争時、日本軍は虐殺どころか、欧米諸国の植民地で苦しんでいたアジアの人々から、欧米諸国の白人達を追いだし、解放、尊敬慕われていた証拠映像です。中国人は、アジア人のくせに白人側について植民地で現地民から搾取していたので、抗日していました。日本軍は抗日軍とは戦ったようですけど。

「やさしい兵隊さん」という日本軍を慕って歌まで作って歌われていたなんて、よほど私達日本のご先祖様達は
立派だったんですね。
ナチスと良く一緒にされますが、ドイツには悪いですけど、ドイツ軍と日本軍は全く違います。


中国、韓国、日本の朝日新聞が、いくら虐殺を捏造しても、真実は色褪せません。

これからは、真実は輝きをまして、偽りの歴史をとかしていくでしょう。

最近、大阪の橋下とかいうバカが「侵略戦争だったというできだ」とバカな事言ってましたね。

とにかく、年配の無知な左翼の方は、もっと歴史を調べてから平和を訴えられたらどうですか?

私達は正しい歴史を調べた上で、平和と反戦を訴えます。でなければ、歴史から何も学べれない、進歩がないではないですか。

私の父も、「日本は悪いことした、悪いことしたから」と言ってました。

この年代に真実の歴史を教える為には、テレビ、新聞のマスコミの実権を握っている中国韓国の帰化人、在日から、日本人に取り戻さなくてはいけませんね!


戦争は悪です。正しい事は一つもありません。
ですが、日本軍が無抵抗の民間人をたくさん大虐殺したという「でっちあげ」は、若くして散っていった日本兵のことを思うと涙がでるほど悔しい。
真実を世界の人に訴えたいんです!情報拡散をお願いします!!!



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大戦の東南アジア虐殺も朝日の捏造

日本は、世界から、第二次世界大戦で、残虐の限りをつくした~と誤解されています。いえ、戦争は悪い事なので、日本も他の国のように罪を犯しました。ですが、戦争に参加した国はどの国も同じように罪を犯しています。日本軍は世界一規律の厳しい軍隊でした。兵隊とは戦ったはずです、自分が殺されるので。でも、今のように世界から言われている無抵抗の民間人をたくさん大虐殺したというのは、誤解です!! 朝日新聞の捏造がここでも活躍してます。
日本人は真実を知るべきです!そして、二度と愚かな悲惨な戦争を繰り返さないようにしましょう!

          こちらから引用させて頂きました。「tacodayのブログ」様
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/6687488.html
  
      
  


1512年、世界一周航海中のマゼランがセブ島に上陸しました。これがヨーロッパ人に大小7100もの美しい島々からなるフィリピン諸島の存在を知らしめることになります(マゼラン自身はセブ島対岸の「マクタン島」の「ラプラプ王」との戦いに敗れて命を落とします)。
16世紀後半からスペインのフィリピン侵略は本格化し、1571年にはマニラを植民地経営の根拠地と定めました。こうしてフィリピンの民衆は以後400年近く、列強からの植民地支配を受けることになります。
そもそも「フィリピン」という言葉自体スペイン語です。1543年、「ビリャロボス」遠征隊がサマル島とレイテ島に到着した際、これらの島々はスペイン王子フェリペ(のちの国王フェリペ二世)にちなんで、「フェリペナス」と名づけられ、その後全諸島の名称として用いられるようになりました。

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(オランダの独立戦争に悩まされた、スペイン王で、ポルトガル王でもあり、イギリス王だったこともあったフィリペ2世)

以降この諸島の人々は元々自分たちとは無縁だった名称で呼ばれることになります。
スペインによる植民地支配は苛烈なものでした。
「エンコミエンダ」という地方統治制度が設けられ、フィリピン制圧に功のあった軍人にこの座が報償として与えられ、彼ら「エンコメンデーロ」は私腹を肥やして民衆を苦しめました。成人男子は年間40日以上の強制労働を課せられ、また教会制度の確立によって民衆は二重に搾取されました。
多くの農民は小作農や農奴に転落する一方、カトリック修道会や、スペイン人、華僑、メスティーソ(混血)の大地主が土地を独占し、フィリピンの社会はごく一部の富裕層と大多数の貧困層に二分されたのです。
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(植民地から収奪した金銀財宝で建設されたエル・エスコリアル修道院
(中略)
元々独立運動の指導的立場にあった「アギナルド」は、アメリカの手引きによって亡命先の香港から帰国し、革命政府の大統領に就任しましたが、アメリカの真意が明らかになると狼狽し、結局は寝返ります。まるで口先では国民に徹底抗日を呼びかけながらも度々国共合作を蔑ろにした蒋介石みたいなゲス野郎でした。
フィリピン人がこういう腑抜けばかりだったならば、アメリカ軍はスペインとの戦争のように簡単に勝利を収めたことでしょう。しかし民衆は祖国を守るために立ち上がり、ゲリラ化してアメリカ軍を大いに苦しめました。そしてまるでこの少し以前までのインディアン大量虐殺のように、半世紀以上後のベトナム戦争のように、アメリカ軍は民衆に対して憎悪をたぎらせ、殺戮しまくるのです。
(中略)
サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に悩まされた挙句に、 「私は彼らを牢獄につなぐことなどを欲してはいない。私が欲しているのは彼らを皆殺しにして、焼き尽くすことだ。君たちが彼らをたくさん殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、 私を喜ばすことになる」(明石ライブラリー 38・萩野芳夫「フィリピンの社会・歴史・政治制度」
「捕虜はいらないぞ。おまえたちは、殺して焼けばよいのだ。一人でも多く殺して焼けばそれだけ私も嬉しく思うだろう」(青木書店・歴史教育者協議会/編「知っておきたいフィリピンと太平洋の国々」より) と宣言しました。
(一時的に指揮下にあった)海兵隊旅団長 L・ウェラー少佐が、「何歳が限度ですか」と訊ねると、 「10歳以上の住民全てにこの命令を適用せよ」(同上) と答えたそうです。
(中略)
後に第26代大統領となったセオドア・ルーズベルトも、このような残虐行為は「対インディアン戦争では何百回となくおこった」のであって、「付随的に残虐行為があったという理由で、文明のための闘争から身を退くことは、偉大な国民にとって全く価値のないことだ」「道徳的な理由でフィリピン群島を放棄しなければならないとすればアリゾナ州もアパッチ族に引き渡さなければならなくなる」(「知っておきたい・・・」より)と発言しました。
フィリピンを支配するためにはどんなに虐殺を重ねても構わないと開き直ったのです。
(中略)
約10年間続いた抵抗戦争によって革命軍は 約1万6千人死亡し、戦乱による飢餓や疫病で民間人は約20万人死亡したと言われています。
またルソン島南部の司令官ベル准将は戦争開始から約2年間でルソン島の人口の6分の1が殺されるか、戦乱による飢餓により発生したデング熱によって死亡し、農家の家畜だった水牛の9割以上が死亡し、米の収穫量が平年の4分の1に減少したと報告しました(「知っておきたい・・・」より)。
このような惨禍を通してフィリピン民衆の抵抗はほぼ制圧され、アメリカの工業製品の市場であり原料供給地でもある、完全なるアメリカの植民地になったのです

アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。
この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)。
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(ニューヨークジャー ナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカの背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。)
(中略)
1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮したアメリカ軍の将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。
(中略)
1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺(英語版)が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。


◇東ティモールの「オモテ」と「ウラ」
ヘラルドートリビューン紙と朝日新聞が同じような時期に東ティモールの話を載せていた。
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ヘラルドの方はこの国の使えない公用語の話。
例えば裁判所をのぞく。ちょうど判事が殺人事件の証人に質問をしているところだった。
この国は五年前にインドネシアから独立したときに憲法で公用語をポルトガル語にした。判事はそれに従ってポルトガル語で判決を下したが、被告も傍聴人もキョトン。要するに国民の95%がポルトガル語を知らないのだ。
記事は大学の掲示板にも触れ、掲示された文書は国民のほとんどが話すインドネシア語と英語書きで、ポルトガル語の文書はない。
なんでこんな不自由が起きたか。記事を要約すると四世紀間のポルトガル植民地時代、人々は教育も受けられず、共通語も持てなかった。いわゆる愚民化政策だ。
ただポルトガル人は植民地防衛のために現地の女に混血児を産ませ、彼らにポルトガル語の教育とポルトガル人の名と銃を与えて植民地の兵士にした。白人混血児は人口の5%ほどだった。
30年前、ポルトガルがここを放棄するとインドネシアが親切にも捨てられた島を拾ってくれて学校や病院を建て、共通語もない島民にインドネシア語を教えてやった。東ティモールにやっと文明の光が差した瞬間だった。
ところがそこで白人混血児が騒ぎ出し、白人国家、とくにオーストラリアの後ろ盾を得て独立した。混血児たちの自慢はポルトガル人の血だ。だから定着したばかりのインドネシア語に替えてポルトガル語を公用語に据えた。
言語学研究者によると、こういう言葉の混乱は植民地から解放されたあとによく起こるが、二度も植民地支配を受けるともっと混乱するという。
その好例がフィリピンだろうか。ここはスペインに植民地にされ、さらに米国の植民地にされ、そのたびに大虐殺も経験した。
こうなると言語だけでなく国民の民度も大きく荒廃する。例えば戦後二代目のキリノ大統領だ。

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彼はつい半世紀前に
米国が残虐な拷問や焼き打ちで20万同胞を殺して植民地にしたのを知りながら、米国にすり寄って
「拷問も虐殺も米軍でなく日本軍がやった」ことにし、歴史の書き換え作業をやった。
さらに
対日賠償交渉ではキリノが法外な賠償額をふっかけ、日本が拒むと、モンテンルパの日本人戦犯14人を集団処刑した。人質を殺して圧力をかけるタリバンにも似た所業だ。
二度の植民地支配を受けると、人間はここまで強欲で破廉恥になれる。
東ティモールも似たようなものだが、公用語問題についてラモスーホルタ大統領は「もう一度考え直してみる」と語る。どうするかというと今の公用語に「英語とインドネシア語を加えて将来そのうちから二つを選ぶ」のだと。
もはや白人混血児による支配体制は固まった。そうなればローカルなポルトガル語より、現実の庇護者のオーストラリアと同じ英語を政府公用語にしたい。
国民の方は同じ仲間の喋るインドネシア語にすればいいという考え方だ。
東ティモールの現状が実によく分かる良い記事だ。

一方の朝日新聞は矢野記者の「忘れられる束ティモールの悲劇」という記事。東ティモールの独立に反対するインドネシア系民兵が略奪や放火や殺人をやった、それなのにだれも罰せられず、事件は風化していくと嘆く。
しかしあれはインドネシアを悪役にする宣伝だった。虐殺があったと言いふらされ、あとで掘ってみたら骨の一本も出なかった。

放火はあった。しかしもともとはインドネシア政府が作った建物だ。圧政者と罵(ののし)られ、追い出されれば、だれでも火もつけたくなる。
今回の総選挙報道でも「インドネシアのメディアは無関心。オーストラリアなどの力の入れようと対照的だった」と書く。この記者は白人混血児が握るこの国がASEANには見向きもしないでオーストラリアなど白人国家との外交を大事にしているのを知らないのだろうか。
そして「過去を清算しないインドネシアと真の友好関係は築けない」と結ぶ。悪いのはアジア人で白人側は常に正しいと書く。読んで悲しくなるが、それより国の関係は別に友好が絶対条件ではない。
日本が中国を嫌うように国家にはよその国を嫌う自由があることを知ってほしい。

◇豪州人の性悪さ
日本は昭和16年、英米に宣戦し真珠湾とマレー半島で戦闘状態に入った。
それを見たオランダとオーストラリアが急ぎ、向こうから日本に宣戦布告してきた。
オランダ人は人種偏見がやたら強く、それまでも米国の尻馬に乗って「黄色い臭い猿」(ピンネルツの日記)の国への禁輸や資産凍結を喜んでやってきた。その禁輸ゆえに日本は開戦に踏み切ったが、宣戦したのは英米だけでオランダは無視した。それでカチンときて向こうから宣戦布告してきた。
オーストラリアも同じ。日本が国際連盟に出した人種平等案を米国と一緒に葬り、日本からの移民も最初に締め出してきたのに宣戦布告の相手から外された。もしかしてビルマ辺りと同じ英植民地の一つくらいと思われたかと,日ごろの僻(ひが)みもあってすぐさま対日参戦を宣した。
とは言えオランダもオーストラリアも日本と正面からやる勇気はない。で、彼らはボルトガル領東ティモールに目をつけた。ここには大日本航空が航路を開設し、首都ディリには運航要員など約30人の日本人が駐在していた。彼らには勝てそうだ。
かくて真珠湾から10日目に約1900人の豪・蘭連合軍が束ティモールに急襲をかけた。
ただポルトガルは中立国で、勝手に侵攻すれば国際法違反になる。現にこのときも東ティモールの総督が両国に主権侵害を抗議したが、豪蘭軍は力で押し切り、日本の民間人を捕らえ、残忍な暴行を加え、監禁した。
日本は事態を掌握するとポルトガル政府に同胞救出のための軍事行動の承認をとり、翌年2月、第38師団の一部が島に上陸した。臆病な豪蘭軍はいち早く退却した後だった。
朝日新聞の船橋洋一はこれほどの事実がありながら「日本軍が東ティモールに侵攻し占領した」と書く。
新聞人のモラルの一片も持ち合わせない彼が今はこの新聞の主筆を務める(タコ注:2012年末退任)。

さてオーストラリア人だが、彼らは臆病なだけでなく妙に執念深い。このとき叩き出された恨みを忘れなかった。
1970年代に東ティモールに駐剖した豪外交官ジェームズーダンが「大戦前の島民人口は47万人で戦後は43万人。日本車が数万人を殺したはずだ」と言い出した。ポルトガル領だった400年間、この島には島民のための病院も学校もなかった。戸籍もないから島民の数も掴めていなかった。宗主国ポルトガルも知らない島民の人口動態を、一見(いちげん)の豪外交官が知るわけもない。思いつきの嘘っぱちということは素人でも分かる。
ところが、そんな嘘を泣いて喜ぶ者がいた。早大教授
の後藤乾一で、すぐに朝日に「日本軍が四万人を殺した」と寄稿した。
これに船橋洋一が飛びつき「日本政府は戦後賠償すべきだ」と、ダンの嘘をとうとう朝日公認の史実に仕立ててしまった。

オーストラリア人は日本を誹膀すると、それを喜ぶマゾ集団がいるのを知って驚きながらも喜んだ。そうと分かればもっと日本をいたぶって虚仮(こけ)にしてやろう。
ダンの次にオ‐ストラリアの経済学者ジョージーヒックスが登場する。
彼は日本の裁判所で嘘つきと認定された吉田清治の嘘と韓国人の嘘つき全一勉の著作をもとに「朝鮮人女性を軍が拉致して性の奴隷にした」とする『the Comfort Women』を執筆した。この一点の真実もない英文の本が後に国連のクマラスワミ報告のネタ本になり、米上院議員マイク・ホンダの決議文に化けていくことになる。
もちろん朝日も植村隆記者が韓国人の家族の協力で[軍の拉致]と言う虚構を打ち出し、ヒックスの支援にまわった。
(中略)

◇日本軍が圧勝した「特殊情報戦」
昭和17年秋、第48師団がポルトガル領東ティモールに進駐した。
理由は二つあった。一つはこの島がオーストラリアの最も近くに位置し、オーストラリア軍が反攻に出るとき、その最前線になるからだ。
もう一つの理由はおかしな話だが、ここを支配するポルトガル人総督らの保護にあった。
この国は戦前から日本には友好的だった。日本がアジアに向けて航空路を開設しようとしたときアジア諸国を植民地支配する米英仏蘭はそろって日本機の乗り入れを拒絶した。飛行機は白人の偉大さの象徴だった。それを日本人がやって見せたら白人神話が綻(ほころ)びるからだ。そんな中でポルトガルだけがOKを出し、日本からパラオ経由でこの東ティモールまで日本製の大型飛行艇が飛んだのである。

やがて日米開戦。日本はフィリピンをもつ米国を叩きマレーの英軍を潰し、インドネシアに進駐してオランダ人を追っ払った。ティモール島で云えば蘭領の西半分は支配者の白人が追い出され、島民は解放されたが、ただ東半分は日本の友好国ポルトガル領ということで白人の植民地支配は続いた。
島民にはその違いが解せなかった。日本車がやってくれないなら自分たちでやる。島民はポルトガル人と見れば石を投げつけた。ポルトガル人は現地の女に産ませた混血児を島民支配に使っていた。島民はこの白人顔を鼻にかける混血児を最も憎んで襲いかかった。
これを仲裁したのが日本車で「植民地政府には島民を苦しめる人頭税を廃止させ、島民にも襲撃をやめるよう説得した」とここに駐屯した山下信一元昭和女子大教授は語る。島民も税金が消え、塩も専売でなくなって大喜びして仲裁を受け入れた。
駐屯して一年が過ぎたとき南部の村からオーストラリア軍のスパイが侵入したという通報があった。
日本側は村人の協力で道案内のポルトガル混血児ピリスとオーストラリア軍のエルウッド軍曹、それに荷物運びの現地人の計五人を無傷で捕らえるのに成功した。日本軍の兵員数、火器、飛行場の状況などを調べてそれを暗号で送信するというのが彼らの任務で、暗号機も押収できた。
スパイは戦場ではすぐ処刑される。しかし日本側は彼らを殺さない代りに、協力を求めた。
契約は成立し、日本車のインチキな部隊行動を織り込んだ電文が打電された。
オーストラリア側は何の疑いも持たず、スパイ活動に必要な食糧や医療品などを指定場所に投下すると返事して来た。日本軍の一人がエルウッド軍曹に付き添い、指定の河口で待つとやがてB24爆撃機が飛来し落下傘が投下された。日本側はこれに味をしめラッキーストライクなどタバコや医薬品、食料品等不足している物資を次々と無電で発注した。
オーストラリア側は律儀に応じてB24や双胴のP38が飛んできて注文品を投下していった。
翌19年、オーストラリア軍は反攻が間近に迫ったらしく新たに諜報員数人を送り込んできた。日本側はこれも島民の協力で拘束した。
反攻は秒読み段階にあるようだった。それで「日本側は兵力20万。陣地は堅牢」と実際の15倍に近い数字を打電し続けた。おかげでオーストラリア軍はとうとう東ティモール侵攻計画を実施しないまま昭和20年夏を迎えた。
そして8月8日。「いい情報だ。日本は無条件降伏した」の電文が届く。
日本側は驚くが、事態を理解し返事を送った。「長い間、貴重な情報を感謝する。日本車司令官」。翌日、オーストラリア軍から「貴官の通報に接し驚愕(きょうがく)に堪(た)えず。よろしく当方の将兵を保護されたし」と電信が入った。
一週間後の8月15日に日本降伏が発表され捕虜は帰還した。
オーストラリア側はこの件についてはあまり自慢にならないからか無視を決め込み、丸二年間、オーストラリア軍を編して物資を貢がせてきた、我が東ティモール守備隊には一切の咎(とが)めはなかった(タコ注:BC級戦犯軍事法廷のこと)。
この島について朝日新聞や北海道新聞は「島民を虐殺した」の「占領した」の好きに嘘を並べてきた。
(中略)
このケースでも連合軍側は長崎原爆投下前に日本の降伏を知っていた。日本は「十日に受諾」が公式の歴史だ。トルーマンは駆け込みでプルトニウム型原爆を投下させたのか。まともなジャーナリストだったら、これだけでも而白いと思うところだが(タコ注:捏造反日プロパガンダ機関の朝日新聞はダンマリを決め込んでいます)。



朝日新聞、ここでも大活躍ですね♥
朝日新聞で働いている日本人を心から軽蔑しています♥


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学校は嘘を教えている!戦争時、東南アジアから日本兵は感謝されていた!!

こちらから引用させて頂きました。「浮世風呂」様
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/dd356601432a130c4d9df0512d13b9f7



元グルカ兵(ネパール人)の証言

我々は世界最強の傭兵だ。
第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。
インド軍は1日で降参させた。

だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。

玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた。日本軍は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。

戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。

停戦の訳

インドで傭兵としてパキスタン軍と対峙してた時、遠くから歌が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが味方じゃないことは確かなので銃をそちらに向けたとき、上官に殴り飛ばされた。

何がなんだかわからなかったが不思議なことに、パキスタン側でも銃声がやんでいた。歌声の主は数人の年寄りで、われわれに気づかないのか旗を持って一列で歩いてきていた。

われわれ側もパキスタン側もその数人のお年寄りが通り過ぎて見えたくなるまで一発の銃弾も発射しなかった。結局その日から2日間は戦闘は再開されなかった。

停戦命令も出ていないのにどうして戦闘がやんだのかわからずに、上官に聞きに言った。その年寄りたちが歌っていたのは日本の軍歌で持っていた旗は日の丸だということを聞いた。
その話を聞いてその夜は泣いた。
ものすごく泣いた。

その年寄りたちは第二次世界大戦で死んだ戦友を弔いに来ていたのだと知った。
こんな危険地帯なのに、第二次世界大戦から何年もたっているのに、戦友を弔うためにこんなところまで来てくれる人たちがいることに涙が出た。

あとから知ったが、パキスタン側もそれが日本人でかつてインド(パキスタン)独立のためにイギリス軍と戦った人たちだと知って敬意を表して戦闘を中断したそうだ。

この半年後、傭兵を辞めて日本に留学した。
たくさん勉強して日本語の読み書きも覚えた。
何年もたって日本のお酒が飲めるようになって、サクラを見ながら飲んでいたとき、サクラの花びらがコップに入った。

それを見て急に涙が出てきた。
あの年寄りたちのことを思いだした。
日本人が本当にうらやましい。

◆ブログ「日本の感性をよみがえらせよう」より

日本がアジアに残した功績・マレーシア国定中学校歴史教科書より

  

平成21年4月にマレーシア・ペナン在住のイスマイル・ビン・ラザク氏を訪問した。その時に、ペナン中学3年生お嬢様アイーシャさんより頂いたのが上記教科書である。現在使用されている、マレーシアの国定の中学歴史教科書である。

 マレーシアの歴史は日本軍のコタバル上陸から始まる。はっ、と驚いた。国史の1ページ・・・それが・・・。
それ以前の、数百年数千年の歴史はないのですか。とアイーシャさんに聞いた。愚問だった。マレーシアは52年の歴史しかなかった。
 ブリッティッシュの老獪そして狡猾な植民地政策。略奪を正当化するための愚民政策、人種を多層支配する分割統治。
 宗教は消され、歴史は消され、言葉は消され、文字を消される。教育はない、自由もない、生きている意味さえ見出すことがむずかしかった。この地で生まれたプライドさえ・・・。
 マレーシアのこの国定教科書に感謝したい。事実を伝えることがどんなに大変なことか。
 アイーシャさんにもう一度尋ねた・・・。「日本がコタバル上陸しなければどうでしたか」
 「マレーシアという国はなかったでしょう。今もブリティッシュの植民地のままでしょう」
平成21年4月28日

http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/9085216.html

◆ブログ「かつて日本は美しかった」より

大東亜戦争・マレー・シンガポール

世界に衝撃を与えたマレー攻略、シンガポール陥落
白人植民地主義の長い歴史の終焉。

 昭和16年(1941年)12月8日、日英開戦。にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入しました。この快進撃を支えたのは現地のマレーの人たちです。

「星港攻略記」筑紫二郎(著) 昭和17年5月(GHQ焚書図書開封より) 日本軍が占領した飛行場の修理の場面
「私達にはいつも味方があった。それは住民である。ジョホール・バールからやってきた避難民の住民たちがわれ先と集まってきて手伝ってくれた。彼らは一様に『早くシンガポールを陥してくれ』という。人力もなかなか馬鹿にならない。二日経つと何とか飛行機が降りられるようになった」

 マレーのラーマン王子は自らマイクの前に立ち、「マレー人よ、日本軍に協力せよ!」とラジオ放送を行っていました。

「サムライ戦車隊長」島田豊作(著)
「私がマレー人を見る目は、いつか同胞にたいするような親しさを覚えるのだった。
 彼らも進撃する戦車の上に、バナナやパイナップルやパパイヤ、ドリアンなどを投げて声援していた。現地に来てから、単なる掛け声でなく、これらマレー人のためにも、イギリス人をこの土地から一日も早く追放しなければと考えたのだった」

日本軍は住民の支援を受けながら快進撃しましたが、ゲマスという山岳地ではオーストラリア部隊と一週間の激戦を行っています。

 現代シンガポールの社会経済史(シンガポール中学校の教科書1985年版)
「オーストラリアの兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指導者によって称賛された。敬意の証として、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵二百人の大規模な墓の上に一本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には、『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉がかかれていた」

 昭和17年(1942年)2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入、15日には日本軍の砲弾が底をつき、攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍は降伏しました。

この難攻不落の要塞といわれたシンガポール陥落はイギリス軍史上最大規模の降伏であり、世界に衝撃を与えました。

 フランス ド・ゴール将軍2/15の日記
「シンガポールの陥落は白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」

 アメリカ歴史学者 ヘレン・ミアズ
「アジア大陸及び英仏蘭の植民地における日本の最初の勝利は、土着民の協力者達の活動によって獲得されたものである。二,三の著しい例外はあるが、日本の緒戦の成功は、ほとんど戦いらしい戦いをせずに獲得された。アジアにおけるヨーロッパの『所有主』達は、日本の軍隊に追われるというよりも、むしろ土着民の敵愾心に抗しかねて引き上げた。われわれは『解放』の戦とよんだが、アジアに於ける戦争はヨーロッパのアジア再征服 - (恥ずべきことには)アメリカの援助を伴った - の戦であることが判明したのである」

 マラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方をもつことは、独立のためにどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです」

 マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏
「これまで独立なんて考えたこともなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年と8ヶ月の経験でした」

 マレーではイギリスにくっついて商売していた華僑は日本軍が来るのを喜ばなかったため、ゲリラとして日本軍に抵抗しています。「マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺した」という反日プロパガンダもあります。戦後、日本人がマレーに調べにきたことがあり、「日本軍はマレー人を虐殺したにちがいない。その事実を調べに来たのだ」などと情けないことを言っていたといいます。これを聞いた元上院議員のラジャー・ダト・ノンチックは驚き「日本軍はマレー人を一人も殺していません」と答えました。ノンチック氏は「日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした」と述べています。

 マレーシア元外務大臣 タンスリー・ガザリー・シャフィー元外務大臣
「日本の政治家の冒頭の挨拶は、ハンで押したように決まって次のような、『過ぐる大戦において我が国は貴国に対してたいへんご迷惑をおかけし申しわけありません』というお詫びです。
 私は、そのたびに、なぜそのような挨拶をなさるのですか。あの戦争で日本は立派なことをなさったではないですか。日本軍がイギリス軍を追い払ってくださったからこそ我々は独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシアも、インドネシアも、シンガポールも、その他インドを含めた東南アジア諸国の独立は考えられません」

 シンガポール陥落は日本軍とマレー人が協同して成し遂げたことであり、世界に衝撃を与え、白人による植民地支配の歴史を終わらせたのが歴史の真実です。

http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/cat41849392/

◆世界はどのように大東亜戦争を評価しているか

平成20年08月11日 歴史
自存自衛と大東亜の解放を掲げて戦われた日本の戦争は、アジアの諸国民や各国の識者からどのように受け止められているのだろうか-。

■イギリス
◎アーノルド・J・トインビー 歴史学者
「第2次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
(1956年10月28日/英紙「オブザーバーL)

■アメリカ
◎ジョイス・C・レプラ コロラド大学歴史学部教授
「日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。いまや真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮び上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。」    (「東南アジアの解放と日本の遺産」)

◎ジョージ・S・カナヘレ 政治学博士
「日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事のなかで、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことである。…このような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」    (「日本軍政とインドネシア独立」)

■オランダ
◎サンティン・アムステルダム市長 現内務大臣
「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、…その誇りを取り戻すべきであります。」
(1985年日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)

■タ イ
◎ククリット・プラモード 元首相
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」

■マレーシア
◎ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」

◎ガザリー・シャフィー 元外務大臣
「日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。」

◎ザイナル・アビディーン 歴史学者
「日本軍政は、東南アジアの中で最も政治的意識が遅れていたマレー人に、その種を播き、成長を促進させ、マラヤにおける民族主義の台頭と発展に、大きな〝触媒″の役割を果たした」

■インドネシア
◎モハメッド・ナチール 元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」

◎アラムシャ 元第三副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの投智なスパイ網と、強靭な武力と、苛酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。」

◎サンバス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」


◎プン・トモ 元情報相
「日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。…そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。そして実はわれわれの力でやりたかった。」         (昭和32年の来日の際の発言)

■インド
◎ラグ・クリシュナン 大統領
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」      (昭和44年、日本経済新聞)

◎ハビプル・ラーマン 元インド国民軍大佐
「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。」

◎グラバイ・デサイ インド弁護士会々長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」
(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)

■スリランカ
◎l・R・ジャヤワルダナ 大統領
「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。」 (1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

■ミャンマー
◎バー・モウ 元首相
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。」 「もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、商機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。」(「ビルマの夜明け」)

■シンガポール
◎ゴー・チョクトン 首相
「日本軍の占領は残虐なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は、自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は、すべて解放された」(「諸君!」平成5年7月号)

日本会議
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/844

◆井上朝義氏(91歳)ご夫妻によるタイの慰霊碑建立

  

http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page046.html


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