韓国・中国の捏造の証拠をあなたに

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中韓は日本軍をナチとプロバカンダするな!!!

  
オランダがインドネシアで巨大な売春婦宿を運営とナチスより残酷な大虐殺

【インドネシア】 インドネシア独立戦争 オランダ人がインドネシアでやったこと・・・ ナチスより残酷な大虐殺
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-989.html
インドネシアは350年間もオランダの植民地でした。オランダが一番残酷非道でした。ナチス以上の残忍
な行為を中国人華僑と供にインドネシアに行っていました。植民地運営を中国人華僑にやらせる共同運
営の植民地でした。中国人の三光作戦「殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす」、住民に対する虐殺や略奪
がおこなわれ、カンボジアで行われた中国の虐殺と同じことが350年間も行われてました。インドネシア
住民の食料まで根こそぎ取り上げ、餓死者が酷く平均寿命は35才と酷い状態でした。350年間に1000万
人以上も殺されチベットと同じ残虐行為が続きました。

中国人華僑がインドネシア都市特定地区に集中して居住しました。中国人の地位がインドネシア人より
高く、インドネシア人を奴隷として扱う土人支配として、見せしめ虐殺が頻繁に行われていました。これら
350年間の恨みが、「反華」、「排華」、「反中国」の根強い恨みとなっています。 

日本軍が入りオランダと中国人華僑を追い出しインドネシアを解放しました。しかし終戦と同時に、再び
オランダが1946年10月~48年にかけて軍事侵攻をして来ました。インドネシアに多くの日本軍が残って
おり、そのままインドネシア解放軍に参戦する凄まじい戦いになりました。オランダによる住民への無差
別殺人を繰り返し、国際世論批判が高まりました。アメリカがオランダを経済封鎖すると最後通告して、
やっとオランダは侵略攻撃を止めました。オランダの残虐行為に、東南アジアでもオランダ人が一番憎ま
れています。独立後は、中国人華僑に取られた農地等を取り戻し、中国人華僑を二等国民に格下げ国
外から排除する政策をとりました。1996年には「華僑と中国政府」によるクーデーターが失敗。

オランダとの独立戦争で指揮を取った多くの日本兵は戦死しました。インドネシアの独立に戦った日本
軍への敬意として、インドネシアの独立記念日に日本軍兵士を英雄として称えています。独立記念日に
多くの「日の丸」を掲げられました。そして日本軍の軍服を着た日本兵士に扮して日本兵を独立式典に
迎えました。日本軍を英雄として称える親日国です。現在では、このような「日の丸」や「日本軍」の服装
をして行う式典はなくなりました。
  

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パラオと強い絆の日本

こちらから引用させて頂きました「ねずさんのひとりごと」様
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1278.html

パラオ0617

以下は、読者のNさんからいただいたメールです。
是非、みなさんにもご紹介したいと思います。

まずは、原文をそのままご紹介します。
~~~~~~~~~~~
最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。

今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。

日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。

夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて

「君たちは日本人か?」
と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。

そのとき老人が言ったことは家内が言うに

「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。

この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。

私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
~~~~~~~~~~~

このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。
海に沈むゼロ戦
海に沈むゼロ戦


旧日本軍のトロッコ跡
旧日本軍のトロッコ跡


大東亜戦争で戦ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が眠っている。

もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。

戦前まで、パラオは日本だったのです。

いや、「日本だった」と書くと、正確さを欠くかもしれません。
正確には、パラオは、日本の「委任統治領」だった。

「委任統治領」というのは、当時あった「国際連盟」によって国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。

この制度は通常、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として収奪するのにもちいられた制度です。

もともとのパラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことです。
このとき植民地支配したのがスペインです。

スペインの統治は過酷で、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間に、パラオの人口は、約90%が失われています。

そして、もうこれ以上収奪するものがない、となったとき、スペインはわずか450万ドルで、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却します。

ドイツは、パラオの原住民を使い、ココナッツの栽培などをするけれど、現地人に対する教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。

そしてドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において、国際連盟の結成とともに、パラオを含むミクロネシア地方一帯が、日本の委任統治領となったのです。

このパリ講和会議では、日本の牧野全権が、人種の平等を主張して、米英と激しく対立しています。

統治の委任を受けた日本は、さっそくパラオに南洋庁をおき、パラオに学校や病院、道路などを建設し、街のインフラの整備を図ります。

パラオの学校には、若き日の中島敦も赴任し、現地人のための教科書作りを行っています。

この頃の日本の領土は、たいへんに広いものだったのだけれど、そんななかで、パラオの子供たちは、日本本土を含む全日本共通テストで、なんと第二位を獲得しています。
子供たちも、たいへんに優秀だったのです。

ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。

まったくそういうものに、これまでずっと接していなかった現地の人たちに、いきなり「道路を作れ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり第二東京タワーを作れ、といわれるに等しい。

では、どうやって造るか。

日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。

まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。

当時、パラオにいた先住民は、わずか6500人足らずです。

そこに日本は、なんと2万5千人もの人を派遣している。
そしてあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄われています。

日本統治時代のコロールの街並み



パラオは、日本の植民地だった、という人がいます。
このどこがいったい植民地なのでしょうか。

~~~~~~~~~~~~
パラオ共和国では日本統治時代に使用されていた機具などは、すべてパラオ共和国の財産として手付かずのまま放置されています。
(メインストリートの外れに灯篭のような石細工がありましたが、いつできたものかわかりませんでした。)

台湾が投資している農業研究所でも、当時使用されていた機具が錆びついてはいましたが、そのままの形で残っていました。
(そこでは建物の中に台湾の国旗が飾られていました)
~~~~~~~~~~~~

↑は、パラオに行かれたNさんの言葉です。

大東亜戦争で、日本は、パラオを守るために戦い、1万1000名が玉砕しました。

このときのお話は、

≪パラオ・ペリリュー島の戦い≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1074.html

≪アンガウルの戦いと人種差別≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-890.html

≪ランボーは日本人だった!・・・舩坂弘軍曹物語≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-708.html

で、詳しくご紹介しています。

戦後、パラオは、米国の信託統治下に置かれます。

けれど、米国はパラオで、産業開発らしいことは一切行わなかった。
いろいろな出来ごとのあと、ようやくパラオが晴れて独立国となったのは、昭和56(1981)年のことです。

その独立国パラオの国旗が↓です。

パラオ共和国国旗
パラオ共和国・国旗


パラオ共和国国旗



この国旗は、日本の国旗をモチーフにし、円が中央からすこしずれているのは、日本にちょっぴり遠慮したからなのだそうです。

戦後の政治、戦後の教育、戦後のメディアが、いかに戦前の日本を貶めても、現地の人々には、当時の日本の仁政が、ちゃんとわかっている。

昨年に引き続き、今年も日心会では、南洋交流協会さんが主宰するパラオ慰霊ならびに独立記念祭への参加のツアーに行ってきます。

どうなんでしょう。
もし、いまこれを読んでいるあなたが、仮に、政府の委託を受けて、南の島に赴任したとして、あなたはそこで収奪や略奪、殺人、暴行、強姦をしますか?
それとも、現地の人々の暮らしや教育のために、自分のもっている知識や経験を少しでも生かそうとしますか?

戦前の日本というのは、大家族主義です。
ひとりひとりの日本人は、全員が、たとえ外地とはいえ非道な振舞いをすれば、それは「家族の恥さらし」であり、「親戚一同の恥さらし」であり、「村の恥さらし」と、生涯、言われ続けなければならなかったという環境にあります。

そんななかで、親兄弟の顔を思い浮かべて、あなたは非道な振舞いができるでしょうか。
日本人なら、それは決してできないことです。

そして人の役に立つことをすると、うれしいと思う心は、いまの日本人も戦前の日本人も同じです。

そうやって、現地の人々のために、一生懸命汗を流し、そこを守るために、命を亡くされた方々が、英霊です。

その英霊たちは、まぎれもなく、わたしたちと血のつながった、若かりし日の祖父たちです。

その祖父たちを貶めることこそが、侵略行為であり、恥さらしな行為であり、それこそが日本の恥であり、世界の恥である。
ボクはそう思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。




日本とパラオ~歴史を越えた友情~
【必見です】

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台湾で神として祀られている日本人がいた!

こちらから引用させて頂きました。「海外の反応・jp」様
http://www.海外の反応.jp/archives/30201942.html






新台湾と日本


この度の取材では
日本と台湾の交流にかかわる多くの名所、旧跡を訪れました。
本編では紹介できなかった、その主なものをまとめました。


芝山公園(台北市士林区)

日本が台湾を領有した明治28(1895)年最初に設置された学校がここにあった。
芝山巌と呼ばれたこの岩山に学堂を開き、付近の子弟に日本語を教えた。

ところが、占領直後の混乱期にあって、日本統治に不満を持つ武装勢力が襲撃。
6名の教員たち全員が惨殺された。

6名の教員たちは抵抗することなく、最後まで、教育の大切さを説いたと言われる。
その後彼らは 「六士先生」 と呼ばれ、教育者の鑑とされた。
20130806sisensei

戦後、進駐した国民党軍によって、神社や墓石は破壊されてしまった。
最近になって、六士先生を慕う人々によって墓石は再建。
その他の記念碑も文化財として保存されることになっている。

芝山巌学堂は士林公学校となり、現在の士林国民小学校に受け継がれている。


三芝(台北市郊外)

第7代総督の明石元二郎の墓がここにある。
明石は大正7(1918)年総督に就任。
日月潭の水力発電事業を推進し、司法制度と台湾人の平等化に努めた。
2013080akasijitugetutan

大正8年10月、帰国中に病死。遺言により台北市に葬られる。
戦後、墓碑は外省人によって破壊され、バラックが建てられてしまったが、
1997年、当時の台北市長陳水扁氏によって整備され、遺骨が掘り起こされた。
20130804hori

楊基銓夫妻ら、心ある台湾の人々の努力により、現在の地に埋葬された。


烏来(ウーライ・台北市郊外)

かつての高砂族の一つ、タイヤル族の村がある温泉保養地。
風光明媚な山麓に 「高砂族義勇隊記念碑」 が建っている。
2013080takasagozoku

大東亜戦争において多くの高砂族青年たちが軍人、軍属として志願。
先祖伝来の刀をひっさげて、武勇の花を咲かせたが、約半数の3千名以上もの戦死者を出した。
1992年、周麗梅(しゅうれいばい)さんらの手によりこの慰霊碑が建立された。

烏来ではタイヤル族の民族舞踊を観賞することもできる。
農耕や狩猟の生活文化は私たち日本人にもなぜか親しみを感じさせる。


宝覚禅寺(台中市)

巨大な黄金の布袋様が鎮座するこのお寺には、
日本人物故者墓碑と大東亜戦争台湾人戦没者、犠牲者の慰霊碑が建立されている。
2013080taiwanyasukuni

戦友、遺族らはここを 「台湾の靖国神社」 と呼んで、お参りを欠かさない。
なお、日本の靖国神社にも氏名の分かる
台湾人戦没者が祀られている。


二二八和平公園(台北市)

元々、「台北新公園」 であったが、1996年、228事件の慰霊モニュメントが建立。
現在の名称に改名された。
園内には二二八記念館もあり、この悲惨な事件についての貴重な資料・遺品の他、
民主化運動の歴史について展示。
2013080ninihatikinenkan

なおこの建物は元ラジオ放送局で、228事件の折には、国民党に抗議する人々がここを占拠。
ラジオで 「軍艦マーチ」 を流しながら、台湾全土の人々に事件を伝え、決起を呼びかけた。


獅頭山勧化堂(しとうさんかんげどう・苗栗県南荘郷)

古くからの仏教聖地であるこの地に一人の日本人が祀られている。
広枝音右衛門警部。昭和5(1930)年に巡査として竹南郡(当時)に赴任。
温厚ながら正義感にあふれる人柄で地元の人々の信望を集めた。
20130804otouemonkeibu

昭和18(1943)年12月、台湾人巡査たちを率い、広枝警部はフィリピンへ出征。
20130804otouemonkeibu-02

戦局悪化の中、広枝警部はこれ以上の犠牲は無意味と、
台湾人たちを投降させ、自らは責任を取り、拳銃で自決。

多くの台湾人の生命を救った広枝警部を慕う人々の熱意により、
1976年、勧化堂の一画に位牌を安置して供養した。

元部下であった劉維添(りゅういてん)さんらが集まり、毎年法要が営まれている。
20130804otouemonkeibu-03



富安宮(ふあんきゅう・嘉義県東石郷副瀬村)

五府千歳(中国の武将)を主神として、いくつかの神々を祭るこの廟に、
一人の日本人が神として祀られている。
神名は 「義愛公」。本名は森川清治郎。
20130804giaikou

森川は明治30(1897)年、巡査としてこの地に赴任。
勤務のかたわら、子供たちに日本語を教えるなど、村人と生活を共にして慕われた。

明治35(1902)年、行政支庁に村の減税を嘆願。
それが元で懲戒処分に。無念の余り、森川巡査は小銃で自殺した。

その21年後、この地域に伝染病が蔓延。
すると、村長の夢枕に森川巡査が出現して、感染予防の処方を伝授したという。

その結果、伝染病はこの村には広がらず、
村人たちの総意により、森川の神像を作り、「義愛公」 の尊称で神に祀ることにしたのである。

その後、「義愛公」 は霊験あらたかな神として話題になり、
貸出用の神像も作られた。今ではその数も80体に上るという。


鎮安堂・飛虎(ひこ)将軍廟(台南市安南区)

ここに祀られている3体の神様は全て日本人。「飛虎」 とは戦闘機のこと。
戦争末期の昭和19(1944)年10月、台南上空、
人々の見守る中、日米の大空中戦が展開された。

その時、米軍機に体当たりして畑に墜落したゼロ戦の操縦者が、
杉浦茂峰海軍兵曹長であることが、後に明らかになったが、
その後、夜な夜な戦死者の霊がさ迷うのを目撃した人々は、
哀れに思い、廟を建て、その霊を祀ることにした。
20130804hikoshougubyou

中央の神像が杉浦茂峰海軍兵曹長で、左右の神像は氏名不詳の戦死者。

戦後、国民党がこれを壊そうとしたが、
壊せば罰が当たると、人々に非難され、免れた。
その後、この神様は霊験あらたかで、
五穀豊饒から宝くじまでご利益があると話題になり、今でも参拝者が絶えない。



他にも台湾には、心温まる秘話がたくさん。多くの見所があります。
皆さんも、観光ガイドブックには載っていない“もう一つの台湾”を
探しに行かれてはいかがでしょうか。

音楽提供:㈶台南市奇美文化基金会
・・・都合上、途中から台湾になってしまいました(笑)
上記動画の広枝警部の部分を補足として書かせていただきます。

台湾人巡査隊約2000人を引き連れて台湾からフィリピンへ渡った広枝警部でしたが、
マニラでの任務は当初、物資の運搬や補給など、部隊の後方支援でした。
そうこうしているうちに戦況が悪化し、ついに総員総攻撃の命令が下りました。

しかし明らかに芳しくない戦況であったため多くの人を死なすわけにいかないと考えた広枝警部は
「台湾人は戦争とは本来無関係だ。ここで死ぬな。責任は日本人である私が負う」
という意味の言を残し、その責任を取るために自決したそうです。
享年は40歳とのことです。

米軍捕虜となった台湾海軍巡査隊約2000名は無事に台湾へ帰ることができましたが、
その後国民党により戒厳が敷かれ恐怖政治の行われる台湾では
こうした話すら気軽にできなかったと言います。

戒厳がやや弱まった1983(昭和58)年、
広枝警部により命を救われた2000名ほどの広枝警部の元部下のうち
最後の一人である劉維添(りゅういてん)さんが
フィリピンに渡り、
広枝警部が自決した地の土を拾い集め、
1986(昭和61)年に日本にいる広枝警部の未亡人のふみさんに送ったそうです。

その ふみさんは1989(平成元年)に亡くなったとのことですが、
ふみさんの位牌は先程の動画に登場した台湾の勧化堂に
広枝音右衛門警部と一緒に祀られており、今でもずっと供養が続けられているそうです。

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日本にとって実は特別な国、台湾。

こちらから、引用させて頂きました。「ねずさんのひとりごと」様
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2123.html#more


台南空航空隊


台湾は、支那の一部だと思っている方が多いかと思います。
それはおそらく、戦後、台湾が支那国民党によって占領統治され、日本がすくなくとも、中共政府と国交を開いた昭和47(1972)年まで、蒋介石率いる国民党が台湾を統治して「中華民国」を名乗っていた台湾をイメージし、かつ、現在の台湾の人たちが話す言葉が「中国語」であるからであろうと思います。

ところがそこには、大きな間違いがあります。

まず台湾には、大きく分けて9つの部族とひとつの政府組織がありますが、9つの部族に共通する言語は、かつては日本語でした。

そしてもともとは台湾に一般的な言語は、福建語でしたが、いまは公共放送などで北京語が話されるようになりました。

けれどこの二つの言語は、まったく別なものです。

そして台湾は、もともと支那の属省であったところではありません。
むしろ無主地であり、9つの、まったく言語も習俗も違う人たちが共存する島国だったのです。

明治4(1871)年のことです。
この年、ある重大事件が起きました。
それが「宮古島島民遭難事件」です。

この事件は、沖縄の宮古島の漁民が、台湾近海で操業中に海難事故にあって遭難し、乗組員54名が台湾に漂着したことにはじまりました。
山中をさまよったこの漁民たちは、たいへん残念なことに、台湾の原住民によって殺害されてしまったのです。

このことを、直接的に責めることはできません。
世界中、どこの国でも、不審者がその辺をウロウロしていたら殺すというのが、世界の標準だった時代のことです。

ただ、そうはいっても、日本としては、事態の収拾を図らなければなりません。
そこで当時、できたばかりの明治新政府は、当時の清王朝に、この事件について厳重な抗議を行ったのです。

ところがこのときの清王朝の回答は、
「化外の民(国家統治の及ばない者)につき、関与しない」というものでした。
清は、間違いなくこのとき台湾を「化外の民」つまり、清国とは関係のない地であり民であると明確に回答したのです。

そこで日本は、明治7(1874)年、台湾に出兵し、加害者たちを攻めました。
これが「牡丹社(ぼたんしゃ)事件」と呼ばれるものです。

要するに日本は、このとき勝手に台湾に兵を進めたのですが、これに対して清朝は何の反応もしていません。
つまりこの時点において、清朝は台湾を自国の領土であるとは認識していなかった、ということです。

その台湾について、清朝が関心を払うようになったのは、明治17(1884)年のことです。
この年「清仏戦争」が勃発し、フランスの艦隊が台湾北部に侵入したのです。

ご存知の通り、台湾と支那本土は、まさに目と鼻の先です。
そんなところにフランスの軍事基地ができたら、これはたいへんなことになる。

そこで清朝は台湾省を新設し、台湾に清朝の役人を置くようになりました。
これが、明治18(1885)年のことです。

そして明治27(1894)年にはご存知「日清戦争」が起こり、明治28(1895)年の日清間の下関条約において、清朝は正式に台湾を日本に割譲したのです。
そして日本は、このあと昭和20(1945)年の終戦まで、ずっと台湾を日本の領土として統治してきました。

ここ、重要なポイントです。

台湾を領土とみなしていなかった清朝が、台湾を清朝の領土、すなわち支那の領土としたのが1895年です。
そして清朝が日本に台湾を割譲したのが1895年です。
つまり、台湾が支那の国土の一部であったのは、「たったの10年間」しかなかったのです。

ではそれ以前はというと、日本でいう戦国時代頃にオランダが30数年統治をしたりした時代があったり、あるいは、台湾が琉球であった時代もありました。
ただ、コレラなどの風土病があり、また部族間の対立も激しくて、台湾島全体を一国として統治するということが現実的に「できない」状況がずっと続いていたわけです。

そして1985年の下関条約から1945年まで、日本が台湾を統治しました。
引き算をしたらわかりますが、まる50年間、台湾は日本の一部だったのです。

この50年間に、台湾は劇的な近代化を遂げ、言語も統一され、台湾の人々は日本人、すなわち天皇のおおみたからとなり、皇民教育を受け、法治国家となり、かつての日本と同じ、治安の良い平和で人々が和と絆と結(ゆ)いの心を大切にする日本国民となっていたわけです。

繰り返しますが、台湾が支那の領土だったのは、歴史上、たったの10年間のことにすぎず、その後の日本統治の50年の方が、よっぽど長い歴史を刻んだときだったわけです。

その台湾には、終戦時に蒋介石率いる支那国民党が占領統治のために入り込みました。
これは日本本土を米軍が統治したのと同じ、「占領統治」に属するものです。

「占領統治」というのは、あくまで一時的にその国の法執行を停止し、行政機構その他の政府機構のすべてを占領軍の下におく、というものです。
幸いなことに、日本本土では、公職追放はあったものの、政府機構はある程度生かされましたが、台湾においては、他のエリアと異なり、占領統治したのが支那兵だったわけです。

当時の台湾では、やってきた支那兵があまりに乱暴で、低レベルであったため、台湾の人々がこれに激しく抵抗しました。
なにせ、国民党の兵隊たちは、水道さえも知らない。
いきなり家にやってきて、水道の蛇口をひねるとそこから水が出るのを見て、これは不思議とばかり、その蛇口を強奪し、兵舎に持ち帰って壁に蛇口を取付けたけれど、水が出ない。
あたりまえです。いくら蛇口があっても、水道管に接続していなければ、水が出るはずもない。

けれど、支那兵は、水がでないのは、お前たちが何かしたせいだと、蛇口を奪われた家にやってきて、その家の人たちを殺したり、暴力を振るったりと、当時、考えられないような暴虐を重ねたわけです。

これに怒った台湾の民衆が、台北の市庁舎に押し掛け、デモをしたところ、国民党は市役所の屋上に重機関銃を据え付けて、広場に集まった武器を持たない市民めがけて乱射した。
これが台湾228事件です。

ここからが、さらに話をややこしくしているのですが、その国民党は、支那大陸で毛沢東率いる支那共産党に追われ、ついに総大将の蒋介石まで、台湾に逃げ込んで来てしまったのです。

蒋介石は、昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約が成立すると、占領統治軍という立場がなくなりますから、台湾に国民党軍があらゆる法律の執行を停止し、軍が台湾全土を掌握するために、台湾に戒厳令を敷きました。
この戒厳令統治は、なんと昭和47(1972)年まで、なんと20年間も続いたのです。

さらに事態を深刻にしたのが、日本の日中国交正常化です。
これは昭和47(1972)年9月29日に締結された「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」なのですが、その声明で、なんと日本は中共政府との間で、
=========
2 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
3 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。
=========
と声明を出してしまったのです。

この瞬間、日本における台湾と支那の位置づけは逆転しました。
いま、中華人民共和国大使館は、東京都港区元麻布3丁目に、豪壮な施設が置かれています。
台湾の施設は「台北駐日経済文化代表処」という名前で、東京都港区白金台5丁目に、小さな二階建ての建物となっています。名称は「台北駐日経済文化代表処」ですが、実質的には台湾の大使館です。

ところがこの二つの施設は、昭和47年までは、位置関係が逆でした。
それまで日本は蒋介石の国民党が名乗る「中華民国」を支那大陸における正統な政府と認めていましたので、「中華民国」の大使館が元麻布にあったのです。

ところが日本が「中華人民共和国」を正統な政府としたため、それまで白銀台にいた中共の出先機関が元麻布の現在位置に引っ越し、かわりに台湾の国民党政府が、白金台に移転したのです。
つまり、テレコになったわけです。

こうして、日本と台湾の国交はなくなりました。
私は、日中国交正常化当時、これを好感して受け止めていました。
当時は、今太閤と呼ばれた田中角栄さんが好きだったし、素晴らしい実行力を持った宰相と思っていました。
けれど、この歳になって思うのは、いかなる実行力、行動力、発言力のある政治家であっても、国家観のない政治家は、結局は国を滅ぼすもとにしかならない、ということです。

実は、そもそもこの「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」自体、きわめて怪しげな内容の声明なのです。

というのは、台湾の国民党政権は、中華民国を名乗ってはいるものの、現実には台湾への亡命政権でしかないわけです。
そもそも、蒋介石政権は、支那大陸の政権であって、台湾の政権ではない。
一時的な占領統治にやってきただけなのに、大陸を追い出されたからといって、台湾に住み着いただけの、ちょっと悪い言い方をすると寄生政権です。
すくなくとも、もとからいる台湾の人々のための政権ではない。
つまり、台湾は、いまだ占領統治下にあるわけです。

ですから「日中共同声明」の第二項「2 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」は、これはこれで良いでしょう。
けれど、「3 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。」は、行き過ぎです。

もっともこれは、中共政府が表明しているだけで、台湾の民衆がそれを望んでいるかは別問題です。
占領統治は、その国の主権を奪うものではなく、その国を一時的に統治するものです。
では、占領統治中、その国の主権がどこにあるかといえば、その国を代表する政府があれば、その政府が、なければ、その国の国民が主権者となります。

実際、イラク戦争において、フセイン政権は崩壊しましたが、だからといって、イラクがアメリカ領になったわけではありません。
あくまでもイラクはイラクであり、その主権はイラク国民が持っている、それと同じです。

ですから、中共政府が台湾を自国の領土であると宣言し、これを日本が認めたとしても、だからといって台湾が中共のものになるわけではありません。
いまだ、近代国家としての内容と質が備わっていなかった中世とことなり、20世紀の台湾はすでに近代国家であり、近代国家の民衆です。
よその国が勝手に台湾の主権を云々できる状態にはなっていません。

つまり、台湾の人たちの民意が認められて、はじめてそれぞれの国のものとなる。
台湾の人々の民意がそこに必要だ、ということです。

現実、台湾の人々も、また台湾を占有している台湾国民党(中華民国政府)も、これを承認しませんでした。
そして、台湾の帰属はいまだ、曖昧なまま、現在に至っています。

いまの台湾は複雑です。
台湾の主たる言語は、台湾語(福建語)ですが、標準語は国民党政府の北京語となっています。
福建語も北京語も、たいした違いがないのではないかと思う人がいるかもしれません。
けれどその違いは、英語とフランス語くらいの違いがあります。
そして9部族の共通語は、日本語のままです。

また政治体制も、占領政権である国民党体制のままになっています。
もちろん、国民党も民主化路線を打ち出し、選挙によって台湾総統や議員を選ぶ体裁はとっていますが、それがあくまで、占領政権であることに違いはありません。

現在、台湾を中共とは別な国家として承認している国は、ソロモン、マーシャル、パラオ、キリバスなど、かつて日本領だった諸国と、平和を願うバチカンをはじめとした、総計23カ国だけす。
日本政府は、残念ながら、かつて同朋だった台湾を、きつい言い方ですが、いまだ見放し、捨てたままの状態になっています。

韓国や支那と仲良くしろという人は、日本の中にもいます。
けれど、かつて日本人として、あの大戦を一緒に戦った台湾について、わたしたちは同じ同朋として、もっと高らかに声をあげて行く必要があると、私は思います。

なるほど、日中共同宣言は、昭和47年に発せられました。
けれども、この宣言は、いまや大幅な見直しに迫られている、そういう時期に来ていると思います。

台湾出身の鄭春河さんのご遺稿をこのブログでご紹介したとき、南星会の居候さんから、次のコメントをいただきました。
=======
鄭春河さんね。台湾歩兵第一第二連隊戦友会は最後の最後まで日本の正義を信じて笑って死にましたわ。
もうほとんど生きてませんけど、10年も前に台北で最後の師団単位の集まりがあって、従軍看護婦だった人も来て、みんなで恩師のたばこ吸って笑ってお別れしましたのよ。

鄭さんは代理神主の資格があってね、台南の鄭成功神社で正式の神主の恰好で神式の儀式最期にやりましたよ。みんな普通のまともな日本人でした。

台湾はね、待ってるんですよ。
聯合艦隊は必ず来る、日本は必ず立ち直って台湾を助けに来る、信じてるんです。

日本を信じて戦った台湾臣民を、祖国日本が見殺しにするはずがないでしょうが。
違うとでもおっしゃるんですか。
あんたらそれでも人間のつもりですか。
=======

そしてわたしたちは、いまいちど、かつて同朋だった台湾のことについて、もういちど真剣に考え直すときに来ているのではないでしょうか。

すくなくとも、日本が欲にかまけて支那と付き合い、大火傷を追っているいる一方で、ソロモン、マーシャル、パラオ、キリバスなど、かつて日本が統治していた諸国は、あの中共政府の圧力にも屈せずに、立派に台湾を仲間として認めているのです。

世界的にみても、人道的にみても、わたしたちはむしろあの殺人大国中共政府など、国家として認めるべきではありません。
さらにいえば、かつて同じ日本人として、一緒に戦った仲間たち、そして東日本大震災では、世界一のお見舞いをしてくださり、さまざまなスポーツの祭典においても、つねに礼儀正しく隣人として、あるいは友人としてまっとうに接してくれている台湾を、わたしたちは、もっともっと、ちゃんと考えなければならないときにきていると思います。



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かって日本だった台湾を救いたい!

こちらから引用させて頂きました。「浮世風呂」様
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/dd356601432a130c4d9df0512d13b9f7


歴史事実から見る台湾

中華民国は今日に至るも台湾の主権を擁していない。

台湾は台湾であり、中華民国は中華民国である。台湾は、中華民国、中華人民共和国の何れにも属していないのだ。
平成 22 年 4 月 16 日

台湾に存在する米国軍事政府(USMG)

「台湾は国家ではなく、中華人民共和国の一部でもない。台湾は主権独立国家でない故、二つの対象国が同時に同意しなければ、台湾問題を国際法廷で審判する事はできない。
(日本の前国際法廷裁判官、小田滋氏) 

 台湾と日本は「運命共同体」であることは事実であり、一部の日本国民も認識しておられるが、鳩山政権と台湾の馬亡命政権の急激な中国傾斜で、台湾は今アジア支配を目指す中国の併呑危機に面しており、台日の生命線は切断されようとしています。
このような危機を招き、台湾を政治混乱に陥れ、台湾人を「国無き民」にしたのは、米国の戦後60余年に渡る「対台湾の曖昧政策」で「台湾国際的地位」の未解決がもたらしたものであり、この問題解決には日米両国の参与が欠かせません。

 何故日本も参与すべきなのか? それは、サンフランシスコ平和条約第二条b項で、日本は台湾の「領土権利」を放棄しただけで、「領土主権」は未だ日本が擁し、『台湾の帰属は未処理のままでどの国にも移譲していないから』で、あり 又、日本地裁が台湾人の「日本国籍」を台湾人の同意無しで一方的に排除し、台湾人が「無国籍」となったからでもあります。

米連邦裁判所を通じて「台湾民権保障」問題で米政府を告訴した「武林志昇vs米政府」案は、司法部に管轄権は無いが、米高裁は米大統領に対し、早急に 「台湾人無国籍問題」の解決、及び台湾人の「政治煉獄内の生活」を中止するよう要求しています。 従って米国は台湾の「暫定状態」の処理と「台湾地位未定」問題を解決すべき責任と義務があるのです。

本土の台湾人と日本人の心は一つ!
http://www.taiwan.gr/index.html

台湾には現在大きく分けて内省人(昔からの台湾人)と外省人(蒋介石と共に大陸から逃げてきた支那人)が住むことを理解しないと、本当の台湾を理解出来ない。

蒋介石が大東亜戦争後毛沢東らの共産党軍に敗れ、国民党軍を率いてこの台湾に逃れ占領したのが中華民国台湾の始まりである。国民党軍の武力による台湾占拠で長く戒厳令が敷かれていた。

◆日本人の誤った「台湾帰属の認識」は即刻訂正すべき!

1、台湾は、日本の植民地ではなく、日本天皇の神聖不可分の国土である。

1895年4月、下関条約で大清国皇帝は拓殖地であった台湾を、大日本帝国天皇に永久割譲した。、其の後、 日本は台湾に「内地延長」政策を採り、インフラ基礎建設を整備、1937年「皇民政策」を実施して、台湾人の改姓名を自由化させた。

1945年4月1日、昭和天皇の詔書で、台湾に明治憲法実施を宣布、台湾は正式に日本の「神聖不可分の国土」となり、台湾人は内地日本人と同等に参政権が与えられ、徴兵制度の義務が課された。 日本は「台湾主権」の構築を完成させたのである。

2、日本は、戦後から今に至るまで台湾の「領土主権」を放棄していない。日本には、台湾に対する「残余主権」と「主権義務」が残されている。

1952年発効のサンフランシスコ和平条約第二条b項で、日本が放棄(renounce)したのは、台湾主権(sovereignty)ではなく、其の主権権利(right of sovereignty )上の管轄権と処分権(right to territory)、及び宣告権(claim to territory)のみであって、神聖不可分の「領土権」は、どの国にも譲渡できない。 従って、残余主権(residual of sovereignty)を擁している故、主権義務(obligation of sovereignty)も依然として残っており、日本は台湾を他国の侵略から守る役目を果たすべき義務がある。

日米安保条約内に、台湾海峡が含まれているのは、其の所以である。

3、台湾には今尚、日本天皇が主権権利を行使できる「大日本帝国憲法」即ち「明治憲法」が存在し、廃棄されていない。

大日本帝國領土の中で、ポツダム宣言第8条で制限された領土範圍、即ち、北海道、本州、四国、九州の四島には、「平和憲法」が施行されているが、其の他の領土である「台湾」は、依然日本天皇に帰属し、同盟軍の占領前に実施されていた明治憲法は、その実施を、一時中止(suspend)されているが、廃棄されていない。

依って、台湾人は法理的に、今でも日本天皇の臣民である。

4、台湾は現在「国際地位未定」であり、「主権独立国家」ではなく、中華民国の領土でもない。 従って「台湾」と「中華民国」は、混合すべきではなく、個別に切り離して「台湾問題」を思考するのが正しい。

日本国土であった台湾は、1945年10月25日から、今日に至るまで「米国軍事政府」の「占領地」である。

現在、台湾に存在する中華民国は、戦後米軍の代理占領だった国民党蒋介石軍が中国共産党に敗れ、1949年から台湾に逃亡してきた亡命国政権で台湾を管轄している。「主要占領権国」の米国は、未だに台湾の「占領終結」を宣言していない。 

従って、「台湾」は、日本が中華民国に返還した領土ではない。 

5、台湾人は無国籍である。 台湾には、「本省人」や「外省人」は存在しない。

台湾は中国の一省ではない故「本省,外省」の名称はあり得ない。米国連邦高裁は2009年、「台湾人は無国籍」、「台湾人には国際で承認された政府が無い」、「台湾人は政治煉獄の中で生活している」との判定を下している。

本土台湾人の日本国籍は不幸にして、中華民国と日本政府が「国籍法」を無視し、一方的に双方からそれぞれ、強制帰化され、強制廃棄された。

これは、双方とも「国籍法違反行為」である。 台湾人の中華民国国籍は虚偽であり、

無国籍の本土台湾人は「日本国籍」に復帰すべきである。
  
6、台湾に存在する「国民党」も「民進党」も、中華民国亡命国の政党であり、本土台湾人を代表する資格はない。

在台中国人は「占領政権の亡命難民」であり、台湾人は「被占領人民」である。 

台湾人を代表すべき民進党が、台湾を含まない中華民国憲法に追従する政党である限り、台湾人を代表することはできない。従って国民党の李登輝も民進党の陳水扁も台湾人ではあるが、亡命国中華民国に忠誠を宣誓した亡命国の総統であって、台湾国総統ではない。 

「台湾国」は未だ誕生していないのである。

「中華民国」の名は、国際社会で1949年から消え失せ、「中華、台北」

(Chinese, Taipei)に改名された。 「中華、台北」とは、国際社会で認定されている(Chinese exile government in Taipei)「亡命中国政府在台北」の略称である。

7、台湾住民に「正名、制憲」や「住民自決」の住民投票は不可能。

現在の台湾住民(people on Taiwan)は、法理上無国籍の本土台湾人(people of Taiwan)が、多数を占めているが、
台湾の管轄権を擁する中華民国国籍の中国人も含んており、お互い国家認識の異なる敵対している異質群衆の集まりである。依って2300万の台湾住民の「帰属問題」に関る、投票資格の認定には正当性が無く、物議を醸し出す。 

又、「台湾主権」を擁しない占領国の米国と中国殖民政権は、本土台湾人の「住民投票」を企画して「台湾帰属」を
決定する立場に無い。 

従って、台湾人の総統選挙は「台湾建国」後に始めて実施可能であり、中華民国体制内での「正名、制憲」や「住民自決」は不可能と言える。

以上の様な「複雑な台湾地位」と「無国籍台湾人」の法理問題を殆どの日本人も台湾人も理解しておらず、間違った認識の感情論で「台湾独立建国運動」に励んてきが、結局骨折り損の草臥れ儲けで、何の成果も無いばかりか、民主化まで後退している。 

一部のリーダー階級の台湾人は、中華民国体制内で建国達成への進路が見出せず、「台湾独立建国」の信念が揺らぎ始めている。、独立派の元老、史明先生も台湾人に「独立建国」を叫ぶ人が少なくなったと嘆いている。この状態が続けば、台湾人の意志薄弱と戦略無しで、台湾はやがて中国に併呑されるのが落ちである。

然し、台湾の「活路」には最後の手段として、正義の「法理解決策」が残されている。

複雑な「台湾問題」を抜本的に解決するには、戦後中華民国軍隊を台湾に進駐させ、曖昧な台湾政策を続けて台湾人を政治煉獄の中で、60余年生活させてきた米国の責任を徹底的に法理追及し、「台湾地位正常化」を訴願することである。

2006年10月24日、米連邦法廷で米政府を告訴した武林志昇グループ228名の標的は、「台湾地位の正常化と台湾民権保障」の訴求である。

三年間の攻防戦を経て、米連邦高裁は「台湾人は無国籍であり、国際で承認された政府が無く、政治煉獄の中で生活している」と判定した、米政府はこれに対し、抗弁権を放棄した後、2010年7月4日「台湾民政府」のワシントンDC代表処の設立に同意した。同年9月8日、ワシントンDCの四季ホテル(Four seasons hotel)で盛大な祝賀会を催行した。

斯くして「台湾民政府」は其の後、曖昧政策を採っている米政府と密接な連絡を取り続けている。 

無国籍台湾人の国籍問題の解決に向け、米国に対し、「台湾公民身分証」発行を要求、既に、米国内で製作された3000枚が発効済み、申請者は増加中。パスポート代理の旅行文件も製作中である。 

やがて、台湾は完全に中華民国と切り離され、最終地位は、大日本帝国の連邦自治国と成り得る。

2011年末、台湾民政府の閣員150名が靖国神社参拝と天皇陛下誕生参賀を催行したのは、日本政府と日本国民の誤った台湾認識を訂正し、台湾人は日本人であり、台湾は日本の国土であることを日本政府と日本国民に、正確な台湾の真実を認識してもらうのが目的であったが、予想通り、日本のマスコミは中国を恐れ一字も報道しなかった。

今年の年末も、官員を増やし同じ活動を催行する。日本国民の支持と応援を期待している。

台湾は日本の運命共同体だけではなく、生命共同体である。

日本国益の為にも、中国の恫喝を恐れず、昔の武士道精神を取り戻し、米日台協同で東アジアの平和と安定を築こうではないか。
平成 24 年 10 月 16 日

http://www.taiwan.gr/tips-for-clear-up-japanese-misunderstandings-for-legal-status-of-taiwan-islands.html

https://www.youtube.com/watch?v=kbRuWV-OXis




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親日、パラオ。大東亜戦争より

こちらから引用させて頂きました。「浮世風呂」様
http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/dd356601432a130c4d9df0512d13b9f7

パラオ、楽園のもう1つの素顔 中国海軍活動の要衝 

日本経済新聞 2013/11/3

 私たち日本人が見慣れている世界地図は、だいたい真ん中あたりの位置に日本列島がある。日本の左側、つまり西側には朝鮮半島と中国大陸があり、左下(日本の南西)にインドシナ半島が伸びている。日本の南にはフィリピンやマレーシアなど諸島部の東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々が散らばっている。

 ふだん「日本の周りの国々」とか「東アジア地域」を考えるとき、多くの日本人の頭に浮かぶのは、この程度の範囲の地域ではないだろうか。インドはちょっと遠いし、オーストラリアを「アジア」と呼ぶには違和感がある。

■日本人が忘れがちな近隣諸国

 ところが日本には、普段は意識に上がってこないアジアの近隣諸国がたくさんある。フィリピン諸島の東側に広がるのが「ミクロネシア」と呼ばれる地域。パプアニューギニアから東方の海域と群島は「メラネシア」と呼ばれ、さらに東側には広大な「ポリネシア」が広がっている。

パラオの世界遺産、ロックアイランド

 地図はたいてい陸地を中心に描かれるから、これらの小さな島国は割愛されてしまう場合もある。とりわけ中国大陸やインドシナ半島が大きい「東アジア」の地図となると、ミクロネシアやポリネシアは、はるか右の方に押しやられてしまう。

 ここに日本人が忘れがちな大きな盲点がある。ミクロネシアの島々は、日本列島の南端である沖ノ鳥島の目と鼻の先。まぎれもない日本の近隣国なのだ。

 青い水とサンゴ礁が広がる海。熱帯魚やイルカとたわむれる静かで平和な群島の生活――。今回「未来世紀ジパング」の取材班が焦点を当てたパラオ共和国は、ミクロネシア地域の西端に位置する海上の楽園である。

 しかし、一見争いごとと縁がなさそうな、このパラオを一皮むくと、世界の大国が激しい覇権争いを繰り広げる“戦場”の素顔が浮かび上がる。取材班が迫ったのは、札束が飛び交う経済外交の攻防戦。そして目的不明の怪しい船がパラオ近海を行き交うという、生々しい現実だった。のどかなイメージとは裏腹に、この地域はまさに「沸騰の現場」である。

■戦略的な「ホットポイント」

 改めて、陸ではなく海を中心に東アジアの地図を眺めてみよう。パラオの重要性は一目瞭然だ。東経160度線以西の太平洋を担当海域とする米国第七艦隊は、このミクロネシア一帯で海洋軍事力を強める中国とにらみ合っている。

 中国の軍事戦略上の概念では、日本の九州―沖縄―台湾―フィリピン・ルソン島―ボルネオ島・ブルネイ・マレーシアを結ぶ線は「第1列島線」と呼ばれる。中国にとって対米防衛ラインだとされる。

 その外側にあたる伊豆諸島―グアム・サイパン―パラオ―パプアニューギニアをつないで弧を描くラインが「第2列島線」。パラオはまさにその中心とも呼べる要衝にある。第2列島線は、台湾に有事が起きた際に、中国海軍が米海軍の増援を妨害する海域と考えられている。

 軍事力の増強で第1列島線の海域での海軍活動に自信を深めた中国が、いま注目しているのが、この第2列島線だとされる。パラオが中国だけでなく、台湾、日本、米国にとっても戦略的に極めて重要な「ホットポイント」であることが分かるだろう。

■人口2万人の熱烈な親日国

 そのパラオが、熱烈な親日国であることは、あまり知られていない。詳しくは番組をみていただきたいが、スペイン→ドイツ→日本→米国と統治国が移り変わったパラオの人々の生活には、今なお多くの「日本語」が息づいている。

 パラオ共和国の一部であるペリリュー島は、太平洋戦争中日米間で激しい戦いが繰り広げられた古戦場だ。多くの戦死者の鎮魂のため、今も「ペリリュー神社」が、ひっそりと建っている。地元民の手で戦跡を保護し、悲惨な戦争の歴史を今に伝える努力を続けているのが、パラオ共和国である。

パラオ独立記念日に登場したみこし

 人口2万人の小国といえども、日本を慕い、日本の価値観や文化を理解してくれる国が、南太平洋に浮かんでいる。米中の大国の間に挟まれ、国際政治の風向き次第では、荒波にのまれて沈没しかねない小さな国である。

 東アジア地域と世界の平和と繁栄のために、私たち日本人と日本国は何ができるだろう。美しい南洋の島国の地に立ち、取材班がとらえた衝撃的な映像の数々から、「未来世紀ジパング」のあるべき姿が見えてくる。

http://www.nikkei.com/article/DGXZZO48913460Y2A121C1000019/

◆以前「辻元清美」がこんな嘘をついていた

『かつて、太平洋の島パラオで、おばあさんからこんな話を聞きました。
 「日本の兵隊さんは、島を守るために武器を持って来たといっていたが、武器を持った兵隊さんが島に来たから、攻撃の対象になって、攻められ、民間人がたくさん死んでしまった。」(日ごころ通信第6回より) 』 よく作り話でもこんな嘘が平気で言えるものだと感心した。

実はパラオという国は世界一親日的な国かも知れない程の国なのである。
何しろ国旗は日の丸を元にして決めた程の国だ。
 そして、パラオのペリリュー島という小さな島で12000人の日本守備隊は大東亜戦争において兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍の敵に対し、持久戦に持ち込み、全く補給なしに73日間守りとおして死闘の末に玉砕した。

その戦闘は戦後 ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
というほどの激しい戦闘にかかわらず現地住民はひとりも死んではいないのである。

ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいた。日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させた。
だから最大激戦地であるペリリュー島において島民の方は一人も死んでいないのである。

パラオの国定教科書には462ページのうち36ページも「日の丸の旗のもとに」と題されて日本統治時代の事にさかれているそうである。 日本がパラオを支配するようになった経緯だけでなく、日本の行った学校教育、産業・経済活動等についても詳しく述べられている。 

 そして昭和五十七年五月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」によるペリリュー神社を創建した。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」。現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれている。そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれている。

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
この詩の作者はなんとニミッツ提督その人である。

これが「パラオ」という国が世界一の親日国家となった理由である。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm

◆Facebook「日本を考える」より


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台湾、ありがとうございます。



第2次世界大戦の時、台湾の方も日本と一緒に戦ってくれていたとは知りませんでした。
本当に無知でした。
この動画を見たら、台湾の方達に感謝、感謝で涙が止まりませんでした。
ぜひ、見て下さい!!日本と台湾の正しい歴史を教科書に載せてください!!

私が小学校か、中学校の頃か、「日本は台湾を占領して、台湾の言葉を奪い、無理やり日本語を話させて、台湾の文化を根こそぎ奪った最低の事をした。同じ事を繰り返してはいけない。」

と大嘘を習いました。・・・・日本の教育を最低にしている、韓国中国の帰化人、在日で埋まっている「日教組」この日本人が軽蔑しているクズ団体、どうやったら潰せるんですか?

まさか、台湾の方達が、日本が併合していた時、こんなに日本の事を慕ってくれていたとは知りませんでした。
ご先祖様達も、台湾の発展にとても尽くされていたとは知らなかった。
日本人が、現在の台湾の教科書に載っているぐらい、尊敬されていたなんて。

今も日本を慕ってくれる台湾の方達に感謝、感謝です。
東日本大震災の時の多額の寄付金、本当に、本当にありがとうございました。

台湾・・・本当に本当に大好きです。現在の台湾をテレビで見ると、不思議に日本を見るように愛情を・・懐かしくなるようなそんな感じがするんです。

アンケートでも、日本の一番好きな国は「台湾」でしたね!

アンケートで、日本の一番嫌いな国はぶっちぎり「韓国」でしたね・・・・。

人間関係って、鏡って言うけど、国にもあてまるんですね~。

台湾の方達とは一緒にどんどん発展していきたいです!!台湾には心から尽くしたい気持ちでいっぱいです。

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インドネシアの代表が韓国を叱ってくれた!

こちらから引用させて頂きました。「NEWS,U.S」様
http://www.news-us.jp/article/382722775.html

ASEANの会議に、韓国がオブザーバーで出席していたとき
突然韓国代表が立ち上がって、
議題とは何の関係もない日本批判を始めた。

ASEAN各国の代表はまたかと思い渋い顔をして聞いていたが
いつまで立っても、終わる気配がなかった為
ついにインドネシア代表が、
韓国代表の話を遮りこう言った。

「韓国人はどうやら
ASEAN諸国を見下しているようだ。
我々は確かになかなか発展できないでいる。
しかしもし、日本がそばにあったら、
現在のようなASEANではなかったはずだ

日本が隣にあれば、
どんな国家でも
韓国程度の発展はできる
韓国の成功は、
100%日本のおかげであって、
別に韓国が誇れるような
ものではない。

韓国人が、恩を受けた日本人に感謝ひとつできない
人達であることが
我々には全く理解できない

我々は戦前に日本から受けた恩に
今でも感謝している。
永遠に忘れることができないものだ。
その結果できたのが、
今ここで開催している
ASEAN首脳会議である。」

インドネシアのASEAN代表の方、ありがとうございました!!
私、感動して、インドネシアがさらに好きになりました!!

中国・韓国の帰化人、在日が日本の新聞、テレビを占領しているので、「日本はアジアから孤立している」みたいな嘘をばらまいていますが、台湾、東南アジアはとっても親日なんですよ~。

中国・韓国こそが、アジアから孤立していることに、本人達いつ気が付くんでしょうか。

その時が来ても・・「時すでに遅し」という状態になっているでしょうが・・・。

日本の目は、卑怯な中国・韓国を捨てて、今はすごい勢いで成長している親日・台湾、東南アジアに発展の目を向けていると思います!!!一緒にアジアを盛り上げて一緒に発展していきましょう~!!!



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